ミニ・コラム


「作者の部屋」「東京日記」などのコラムコンテンツを途中で打ちきってきた、私のコラム第3弾です。いつ打ち切りになるかわからないけれど、お付き合いください。

2/4 階級

新しい職場に変わって、だいぶ落ち着いてきたため、そろそろコラム更新などを復活させる。

 先日競馬場に行ってきた。実は京都の競馬場には何度かいったことがあったが、競馬ファンでもなかったので、とくに印象もなかった。今回始めて「小倉競馬」に行った。ここは実に興味深いところだ。

 小倉競馬場は小倉駅からモノレールで行き、モノレール駅のすぐそばという最高の立地にある。建物も近代的で綺麗。いやはや、京都の競馬場より数倍綺麗だ。建物も7階ぐらいまであり、吹き抜けもある、広いロビー、清潔なトイレ、騒がしくない場内。駅から降りて、場内に入ると、まず、コンパニオンのお姉さんが、今日出走する馬の一覧表が載ったプログラムを無料で配布してくれ、施設内にはレストランも完備。もちろん子供用の遊び場などもある。エスカレーターで、移動でき、障害者の人もスムーズに移動できるバリアフリー設計だ。

 レースもだいぶ見学し、なるほど競馬の流れと馬券購入について多少わかったので、そろそろ飽きてきた。そこで、わたしはこの小倉競馬場をうろうろしてみた。吉野家やケンタッキーフライドチキン、銀座ライオン、うどん屋、モスバーガー、中華レストラン、ファミレスなどなどそろっている。

この競馬場は1階から4階までに、一般席がある、また、3階から4階にA指定席があり、5階はB指定席と馬主席、6階は特別席が用意されているのだ。ちなみに、6階へ通じるエレベーターの前には受け付け壌と警備員がおり、おそらく6階へは部外者が一切立ち入れない構造になっているのだ。ちなみに5階には小倉ステーションホテル系列のレストランがあり、このレストランには5階もしくは6階の客じゃないと入れない様子なのだ。つまり、フツーの客は4階までの施設しか使えない構造になっている。

 また、1階より2階、2階より3階のほうが全体的にきれいで落ち着いており、1階だと床に新聞をしいて、その上に座り込むようにして、馬を吟味している人がたくさんいるが、3階以上になると、その数は数人しかいない程度だ。客も雰囲気も上の階にいけばいくほど上品になり、ちなみに、1階、2階はファーストフード店はあるが、いわゆるレストランはなく、レストランは3階以上しかないのだ。ちなみに先述したが、5階のホテル系列レストランは5階以上の客じゃないと入れない。

 高級ホテルに行くと、特別室しかない階があり、その階へはその階の泊り客ではないエレベーターがつかず入れない構造になっているのは知られているが、まあ、それを髣髴させるわかりやすい階層構造だった。

 競馬に指定席や特別室があるのは知っていたけど、こんなにわかりやすい階層構造になっていることはしらなかった。イギリスでは競馬は女王様も観戦するような遊びであることは知っていたけど、いやはや、上の階と下の階に雲泥の差がある。きっと馬主になると、馬主席から優雅に観戦できるのだろうなとおもいながら、その馬主席というのがどういう構造なのか想像もつかない。

 コンサートだって、演劇だって、席には良い席と安い席があるけど、それ以上にすごくわかりやすい席の違いを感じた。殆ど階級差を感じることがない日本で、軽いめまいを感じた。


8/31 天才という病

 最近読んだマンガで一番高い評価をしているのが「サトラレ」という作品である。映画にもなっているのでタイトルだけはしっているという人も多いとおもう。原作はマンガ雑誌「イブニング」のコミックとして現在4巻まで出ている。

 ご存知ない方に説明すると、このサトラレとは自分が心で思ったことがすべて思念波として外部に発信してしまう一種の病気である。「お腹すいたな」から『トイレにいきたいな」だけではなく、「あいつ嫌い」「ばっかじゃないの」まで一瞬思ったことがすべて周囲の人の筒抜けになってしまうのだ。この先天性の病気が発症している人はほんのごくわずかだが、彼らサトラレの存在は周囲に多大なる迷惑をかける。普通の人なら決して表さないはずの悪意、本能なども剥き出しにされてしまうのだ。しかし、作者はこのサトラレという病にすばらしい才能をあたえた。それはこのサトラレは全く例外なく天才であるということだ。

 そこで、国家はこの天才「サトラレ」を国家の宝とし、膨大な費用をかけて「サトラレ保護法」という法律を制定し、サトラレの保護にあたっている。生まれて数ヵ月後にその子が「サトラレ」であるとわかった段階で「サトラレ保護法」を適用される。このサトラレにけっして自分自身がサトラレであるということを悟られないために膨大なサトラレ保護委員が動員されるのだ。サトラレ保護法ではすべての国民はサトラレに対して故意に「あなたはサトラレですよ。」と知らせることを禁止している。思念波を感じ取って、「おやっ?」と思ったとしても、それを顔に出して、サトラレに気づかれるような行為をしたり、もちろん、本人に直接それを言ったりすることは許されない。全てなにもなかったかのように振舞わなければならないのだ。それは国民の義務なのだ。そして、サトラレ本人にはつねに24時間の監視がつき、サトラレ自身が自分の正体に気づかないように注意深く警護しているのだ。したがって、現在日本のほとんどのサトラレは自分自身がサトラレであることに気づいていない。このような大規模な保護政策が取られるようになったのは、かつてサトラレであることを知り、ショックで自殺した人物がいたためである。サトラレの天才的な才能は国家の宝であるから、そのサトラレが自ら命を絶つことを全力で阻止しようとしているのだ。これが物語りの設定である。

 このマンガにはたくさんのサトラレが登場する。科学者、医者、サラリーマン、大学生、中学生、小学生、赤ちゃん。それぞれがそれぞれの人生を生きている。こういう設定のマンガはたいてい、このような変わり者に対して、一般人たちが排除の方向に動いたりするお話になりやすいが、この「サトラレ」では一般の人たちはサトラレに対して「厄介な奴らだ」と思いながらも、それなりに距離をおくことはあっても、決して弾劾したり、いじめたりしようとはしない。意外とみんな暖かいのだ。日本国家もサトラレが国家の宝であるとしながらも、決して閉じ込めたり、実験をしようとしたりしない。あくまで人間として人間らしく扱っているのだ。この話持つ高いヒューマニズムこそがこの話の魅力だ。こんな奇病を背負った天才達も、ちゃんと恋をして、失恋して、ケンカして、自己嫌悪に陥って、人生に迷って生きている。天才だって、病気だって普通の人間と何も変わりないのだ。そういう態度をはっきりと打ち出したこの作品は今後も良い方向で続いていくと思う。設定も見事でストーリーの完成度も高い。ぜひ大人に読んでいただきたい。


6/15 本に旬あり

 この歳になって気づくのはおそいかもしれないが、本には旬がある。野菜や果物と同じで、最適な時期があるのだとおもう。昔読んでよくわからなかった本や、ぜんぜん面白いと感じられなかった本が、今では面白く感じられたり、またその逆があるのだ。

 ずいぶん前だが、友人と図書館に行った。そこでたまたま「はらぺこあおむし」を見つけた。私はかつてこの本をとても気に行っていて、昔、幼稚園の図書室で何度も読み返したのだ。懐かしさに思わず手に取り、捲ってみた。ところがこれが、おもしろくない。ご存知の方もいるとおもうが、この話はたいした話じゃないのだ。つまり卵から青虫が孵って、蝶になる。それだけの話なのだ。うーん。いったい私はこの本の何が気にいっていたのだろうと思うのだ。ハッキリ言って話じゃないだろう。この本の持つイラストのカラフルさとか、虫が食べた果物にちゃんと穴があいているところとか、そちらのほうが断然気にいっていたのだ。

 きっと「はらぺこあおむし」の魅力は幼児でなければわからないだろう。やはり、あの本は小さい頃に読むべき本なのだ。大人になってから読んでも、良さはわからないだろう。逆に、子どもには絶対理解できない名著というのもある。

 今理解できない本はまだまだ自分にとって旬じゃないんだろうな。そうおもう。もうちょっと大人になってから、人生の経験を知ってから、その時こそ真に面白いと感じられるかもしれない。


2/9 「ギリシア・ローマ神話」「中国・日本神話」

 先日、ギリシア語を勉強しているギリシア愛好者の人とちょっとギリシア料理店に行った帰りで話したこと。

 本屋に行くと「ギリシア・ローマ神話」というタイトルの本をよくみかける。が、これは冷静に考えると、本屋に「中国・日本神話」と書かれた本が売っているようなものだから、絶対におかしい。もちろん、日本でも中国の神様を信仰する習慣はある。たとえば中国の神様である「神農」にたいする信仰は、日本でも良くあるものである。だから、中国と日本の神様に何の関連もないのかと言われれば、全然無いとは言い切れない。でも、でも、「日本・中国神話」なんて本はありえない。中国の神話と日本の神話を比較すると言うようなテーマの本なら別だが……

 ところが「ギリシア・ローマ神話」というタイトルの本はなんの躊躇も無く本屋に置かれている。そして、ギリシアの神話とローマ神話にならべて書いてある。ローマとギリシアが何の関連も無いとは言わない。ギリシアは後にローマに征服され、ローマ帝国の一部になったのだから。でも、ギリシアとローマは別だ。もちろん神話も別だ。なんで外国同士の神話を一冊の本にまとめているのか、それこそ、ヨーロッパ人の頭の中にギリシアとローマが渾然一体となったイメージとして存在しているということの証しではないだろうかとおもう。


2/6 人口なんてわかるの?

 私は大学で歴史学を学んだ。最近の歴史学では統計を導入することが非常に増えてきた。たしかに20世紀の比較的行政のしっかりした地域ならかなり正確な統計資料を作成しているだろうから、それを学問に応用するのは大変よろしいことだろうと思う。だが、実際のところ、それ以前の時代や、行政制度のしっかりしていない地域は現在でもほとんどであり、歴史学に人口統計などを導入することはなかなか難しい。

 もちろん、わたしは人口統計の全てを否定しているわけではない。歴史学に人口統計を導入して成功した例はある。有名なのはあるイギリスの例である。イギリスのあるかなり田舎の村の17世紀ごろの人口統計がかなり完璧に近い形で残っている。これはたまたまと言っていい。ヨーロッパでは教会が地方の行政単位として機能していた。つまり、子どもが生まれれば教会で洗礼を受けさせ、もちろん結婚も教会に届け、死んだ後の葬式も教会に頼む。つまり、人生のターニングポイントはすべて教会が仕切っていたのである。とはいえ、普通はそれで終わり。お墓の数を調べたりして、統計を取ることはある程度できるが普通はその程度だ。が、このイギリスのある村は非常にまれなケースであるが、この村の人々がいつ生まれ、いつ結婚し、いつその夫婦の子どもが誕生し、いつ死亡したのかはっきりとした記録が現在まで残されているのだ。これは、たまたま当時そこの牧師だった人物が非常にマメな人であり、洗礼式だの、結婚式だの、葬式だのといった行事がいつ行われたのかを記録に残していたからだ。牧師さんのマメさのために記録が残ったのだ。もちろん、そこが人口が少ない村だったというのも記録を残せた一因だろう。人口が多ければマメな性格でも無理だ。

 一般的には家系図だとか、いつ生まれていつ死んだのかはある程度のお金持ちや社会的地位のある人でないとなかなか歴史上にはのこらない。が、この例は非常にまれなケースとして田舎の無名の人々の人生がそっくりそのまま現代まで残されたのだ。まさにマメな人の存在が歴史学の一番の貢献者なのだ。もちろん、このマメな牧師の書き残した膨大な記録をイギリスの大学の先生が多数の院生・学部生を動員して作業にあたらせ、綿密に纏め上げ、当時の田舎の普通の人の平均寿命、平均初婚年齢、平均出産数などを出したのだ。これをやったときまだまだコンピューターが簡単に使える時代ではなかったから、すべて紙に書いて整理したという。歴史学も意外と大変な学問なのだ。こういう無名のマメな牧師と、それを調べようと努力した20世紀の歴史学者たちの努力の結晶として、意外と出産数が少ないことや、意外と初婚年齢が高い(20代後半)という事がわかっている。このようにある程度きっちりと統計を取った上での数字なら私はかなり信じるし、そういう研究はすばらしいと思う。

 が、実際のところ、わたしは古代ギリシア史を専攻していたが、古代ギリシアあたりとなると、そういう厳密な統計はありえない。一部の残された記録をかき集め、「だいたいこんなもんでしょうねえ。」という数字しか出せない。お墓の数を数えたり、あちこちに書かれた数字データを拾い集めてなんとか形を作るしかない。まあ、それでもイメージを作る程度には役に立つだろう。しかし、それはそれ以上踏み込んで利用できないデータだ。イメージはあくまでイメージであり事実ではありえないのだ。統計と言うにも程遠い。それでもとりあえず数字は拾っているのが救いなのかもしれないが……

 私が一番危険だと思うのは、統計に全く頼らないイメージとしての、人口データが一人歩きすることだ。ニューヨークの貿易センタービルが破壊されたとき死者6000人程度と報道されたが実際のところ数えてみると3000人だった。つまり、事件直後は激しく混乱して、お互いが行方不明を捜しあったりしたため、全く正確な人数がわからなかったのだ。それはそれで仕方ないし、ちゃんと落ち着いてからきちんと調べてみたら実は3000人でしたとわかっているのだから、それはそれでよいと思う。だが、思うのだ、もし、これがアメリカのようにきちんとした人口統計や、国民の把握がきちっと出来ている国でなくて、そういう統計データや管理のあいまいな国だったら、結局3000人でしたという事実がわからないまま、「6000人ぐらいでしょう。」という謝ったイメージがそのままとなり、おそらくそれが歴史の真実となっただろう。だれも確認しようが無いのだ。10人、20人程度なら死体の数をきっちり数えることができる。が、それ以上になって、しかも瓦礫の下敷きになっていて、おそらく発見したときはものすごい腐臭漂うありさまになっているだろうことを考えると、よほどきっちり数を数えようという意思がなければ、「こんなもんでしょう。」ということになる。まあ、現実はそんなもんだ。

 千人単位の犠牲者の出たあのツインタワーで、きちんとした国民管理システムの完成されているアメリカでさえ、倍以上の誤差が出たのだ。これが人口管理があいまいであり、数を数えようという意思も無く、「こんなもんでしょうね」ではじき出された数字があるなら、果たしてどれほど信用することができるだろうか。

 私は人間の人口に対する感覚など、たいしたこと無いと思っている。私は大学生時代の4年間を京都市内で過ごした。でも、京都の人口なんてぜんぜん知らなかった。たぶん100万人ぐらいじゃないかなと勝手に思っていた。(もちろん、適当なイメージであり根拠は無い。ただ、日本では100万人を超える人口を持つ市は多くない事は知っていた。)そこで、京都市のホームページで人口を調べてみると、146万人とのことだ。おそらくこれは京都市に住民票を置いている人の数に違いない。実際はこれ以上の人がすんでいる可能性が高い。(京都は下宿学生率が高く、実家に住民票をおいたままにしている人が多い。)もちろん、不法入国などで住んでいる外国人もいるだろう。それに、京都は観光地であり常に多数の観光客が訪れていること、京都は比較的都市部であり、すんではいなくても仕事や通学で昼間はもっと人が増えることも当然考えられる。おそらく、昼間の人口は相当数になり、実際に京都市内をうろうろしている人の数となるとかなりの数になるだろう。私の人口感覚なんてそんなモノなのだ。4年住んでいたってそんなもんなのだ。

 つまり何がいいたいのかというと、よく戦争での死者が〇〇万人とか、ホロコーストの死者が〇〇万人などとかいてあるが、あれは全く信じるに値しない数字ですよということだ。万単位になるとほぼ正確な数字は出ない。わたしはホロコーストが無かったとかそういうことを言っているのではない。数字などあてにならないと言っているのだ。短期間の戦争ならそれでもまだましかもしれない。数年にわたっての戦争での犠牲者数など、よっぽどきちんと国民の把握を行っていなければ、殆ど正確な数字は出ない。ましてや、死傷者などと書けば、いくらでもなんとでもなる。怪我は後遺症が残るほどの深刻なものから、かすり傷まですべて含まれるのだ。もちろん、それが交通事故のように一件一件きちんと警察官が呼ばれて、現場検証をして出した数字ならともかく、戦争の最中ではそういうことさえもあいまいだ。それに加えて、悲惨な戦争であればあるほど、犠牲を多く見積もる心理的な操作が加わる。それは悪意ではないのかもしれないが、そういう被害者心理に気をつける必要があるだろう。もちろん犠牲者の数が戦争などの悲惨さを図る一つの目安にはなっても、決定的するものではないことも付け加える。


1/17 ユニセフのダイレクトメール

 久々に実家に帰ったとき、母親から妙な話を聞いた。なんでも父親あてにユニセフから寄付の依頼のダイレクトメールが来たというのだ。私の父親は自慢じゃないが、あちこちに寄付をして回るような人間ではない。まあ、せいぜい街頭の募金箱や年中行事同様の共同募金に参加する程度で、自分から率先して高額な寄付金を払ったことなど無い。それなのに突然振り込み依頼書とともに寄付を呼びかけるダイレクトメールが来たわけだから仰天するのも当然だ。怪しげな名簿に住所などが載っているのかと思ったらしく、私が何か怪しげなところに寄付をして、その情報が回っているのではないかと心配したのだ。だが、私もバカじゃない。寄付をしたことはあるが、数回程度だし、少額。もちろん寄付先は覚えている。少なくともユニセフに寄付したことは無いし、父親の住所などを必要以上に書くことも無い。用心しているのだ。

 このあまりの怪しさ、ユニセフに何か住所などを登録したわけでもないのに送りつけられたダイレクトメールに不審を感じたので、ユニセフのホームページを見てみたのだ。するとたしかにユニセフはダイレクトメールによる寄付の呼びかけを行っているらしい。これは本当に間違いのないユニセフからのダイレクトメールなのだ。

 とりあえず同じような文面の封筒をたくさん作って、適当に民家のポストに入れて回ったというようなダイレクトメールではない。封筒の中の文章には丁寧に父の名前が印刷されており、間違いなくユニセフは私の父の名前と住所を知ってこのダイレクトメールを作成しているのだ。

 わたしは別にユニセフのファンでもなんでもないが、少なくとも悪い団体とはちっとも思っていなかったし、むしろ立派なことをしているというイメージだったが、このメールを見てかなりイメージが変わった。たしかに、ユニセフも悪気があったわけじゃないかもしれないし、何かひどいことをされたわけでもない。ユニセフとしては一円でも寄付を集めたくて必死だったのかもしれない。それは高い志のためだったのかもしれない。が、怖い。

 もし、ユニセフが寄付を集めるためのビラをポストに入れていったぐらいなら、なんとも思わないが、こちらの住所、氏名をどこからか把握した上で、封筒を作成し、ポストに入れて、振込用紙を同封するまでして寄付を要求するのはいかがなものかと思う。一瞬ユニセフを語った悪徳業者の詐欺かと思った。

 これほどの立派な封筒、美しいカラー印刷、配達のための費用など、それなりに金銭的にも負担があるだろう。そこまでして寄付金を集めることに意義があるのだろうか。わたしだったら、絶対にこんな手紙一つを信用して、口座にお金を振り込んだりはしない。たとえユニセフと書いてあってもだ。

 ユニセフのホームページを見るとアメリカから送っているとかいてあるがまったく信じられない。だいたい、アメリカで日本語の印刷をして、アメリカから日本に運んで配達する理由など無い。アメリカで日本語の印刷をする自体、日本以上にコストがかかるはずなのだ。なにかとっても不可解なものを感じる。


12/21 真珠夫人を読む

 だいぶ前になるが昼のメロドラマで「真珠夫人」というのをやっていた。かなりの人気であったから知っている人も多いと思う。ドラマについては未見だが、評判を聞いて菊池寛の原作「真珠夫人」を読んでみた。

 思った以上に「真珠夫人」は名作だと言っていい。こんなに面白い話が長らく絶版になったのはもったいないことだと思う。実際に新聞連載当時は非常に人気があったのだ。

 新婚のエリートサラリーマンの信一郎は妻の下へ急いで帰ろうとしていた。そんな時、たまたま乗り合わせたタクシーが事故に合ってしまった。自分は無事だったが、方向が一緒ということで乗り合わせていた青年が重傷を負った。彼は死ぬ間際に「瑠璃子」という言葉と「銀の時計を返してほしい」と言い残した。信一郎はその最後の遺言を聞き届け、青年の葬式に彼の願いをかなえるために赴いた。葬式に行くとそこには美貌の未亡人瑠璃子がいた。そこで、かの遺言を実行するべく、瑠璃子に銀の時計を返す。が、同時に瑠璃子の美貌に魅せられて、彼女に誘われるままに彼女の家に赴く。ところが彼女の家は彼女目当ての若い男たちが集まるサロンであった。その場で激しく侮辱され、傷つけられた信一郎は、あの死んだ青年がなぜあの時計を返せと言い残して死んでいったかと言う理由を悟る。あの青年も瑠璃子の美貌に魅せられ、そして彼女から冷たくあしらわれた経験をもった悲しい男だったからだ。

没落男爵家の令嬢瑠璃子は伯爵家の令息直也と恋人同士であった。二人はある成金荘田という男のパーティにおいて、本人に聴かれるはずも無いと油断して荘田の悪口を言っていたが、それを荘田が聞いてしまった。荘田は二人への復讐を誓い、瑠璃子の父である男爵を罠にはめ、自殺寸前までに追い込んだ。瑠璃子は荘田に復讐すべく荘田の後妻となる。荘田も二人への嫌がらせとして瑠璃子に結婚を申し込んだものの、実際に結婚してみると瑠璃子のあまりの美貌に魅せられていった。瑠璃子はまだしばらく娘のままで居たいと、荘田と結婚はするものの寝室をともにはせず、処女を保っていた。しかし、結婚から数ヵ月後、荘田は死ぬ。そして瑠璃子は処女のまま荘田の未亡人となり、自由に生きる女となった。そして彼女は彼女の美貌に見せられた男たちを招くサロンの女主人となり、男たちの崇拝を受ける女王として君臨する。彼女に魅せられた男たちは足しげく彼女の下に通う。瑠璃子は男たちを軽くあしらいながらも決して本気にはならず、自由に暮らしていた。彼女はなぜか荘田の先妻の娘美奈子を溺愛し、実の娘のようにかわいがる。そんな美奈子も瑠璃子になついていく。

 信一郎は瑠璃子の妖婦性を見抜き、せめてはあの青年の弟とは縁を切ってもらうように頼む。あの死んだ青年の弟も瑠璃子の熱心な崇拝者だったからだ。しかし、瑠璃子はあえてあの青年の弟に箱根への旅行に誘う。弟は自分の兄が瑠璃子に冷たくされたゆえに絶望していたということをぜんぜん知らなかったのだ。弟は何も知らずに瑠璃子に結婚を申し込むが、瑠璃子はあっさりと振る。しかし瑠璃子が誰よりもかわいがる義理の娘美奈子は心の奥底で弟に恋をしていたのだ。そして・・・

 すばらしいメロドラマ。これはおもしろいですね。瑠璃子は荘田への復讐を誓う冷酷な女になるわけですが、決してそれで人間性の全てを失ったわけじゃない。それもいいし、瑠璃子が実に魅力な女性だ。男をまるでおもちゃのようにもてあそぶように見えて実は…

 男は女をもてあそんでも決して非難されないのに、女が男をもてあそんだなら非難される。そんな大正の世の中にあえて男をもてあそぶ魅力的な女瑠璃子を登場させた菊池寛の力に脱帽です。瑠璃子は実に現代的でありながら古風。これは人気になる作品ですよ。ぜひお読みくださいませ。


12/20 みんなが戦争をしたい理由(わけ)

 ギリシア史を勉強していたとき、感じたことだが民主政治が徹底していたアテナイでは市民の間に「戦争をしたい」という欲求が強かったように思う。大抵高校の歴史で習うことだが、ギリシアの政治が民主政治となった理由には色々な説があるが、最も一般的な説明はギリシアの戦争は重装歩兵による密集隊形による集団戦法が一般的で、1人の有力な人物ではなくみんなが足並みをそろえて戦う必要があったため、平等な民主政治が形成された、そして、ペルシア戦争において海戦が主流になり、いままで武器や装備を買うお金も無かった無産市民も軍艦のこぎ手として戦争に参加することになったので、財産をもたない市民でも政治に参加する権利を得るようになったと説明されている。これを信じるなら、「戦争に参加できる=政治に参加できる」という定義が成立するわけで、それを考えるなら、戦争が現在のようにネガティブに考えられていたわけでもないというのがわかる。戦争こそ男(一人前)の証しだったのだ。

 しかし、それにしても戦争で傷ついたり、死んだり、負けて奴隷に売り飛ばされたりする可能性だってあるわけで、戦争をすることは必ずしも利益に結びつくとは限らない。そういう面を考えたとしてもギリシア人はつねに戦争をしたいという意思を持っていたように感じる。戦争というのはそれだけ魅力的だったのだ。

 いったいなぜこれほど戦争をしたかったのかと考えると、一つの前提が考えられる。まず、現在のように戦争で死人がたくさん出るわけではなかったことだ。今のように爆弾があるわけでもミサイルがあるわけでも、地雷があるわけでもない。そういう時代の戦争は、それほど死人が出るわけではないのだ。テレビや映画では武器を持った人間同士が派手に武器を振り回しているのだが、実際、武器を持った同士が対峙した場合、こっちも武器があるが、向こうも持っているわけで、お互いそんなに大きく武器を振り回したりしない、向こうの攻撃をいかに避けるかを考えるのが先だ。第一、戦列を崩してしまえはいいのであって、敵を殺す必要は無いのだ。ギリシアの海戦でも船をぶつけて沈めあうわけだが、これも敵を殺すのが目的ではない。沈められたら、船の切れ端にしがみついて救助を待つしかない。捕虜にされて奴隷に売り飛ばされるかもしれないが、運が悪くない限り戦闘自体で死にはしない。もちろん、まったく死の危険が無いわけではないし、敵に囲まれた状態での篭城戦になってしまえば、生きるか死ぬかの戦闘にならざるを得ない。そうすると当然だかかなりの被害が出てしまう。実際にそういう例もある。ただ、生きるか死ぬかの大戦争というのは何十年に一回の話であって、殆どの戦争は小競り合い程度のものだ。

 つまり、戦争のネガティブな面にくらべて圧倒的に利益が大きいのだ。ギリシアでは民主政治が徹底しているため戦争に勝った場合の利益もすべての市民が平等に分けるのが原則になる。つまり、全く財産をもたない貧乏人で一家の暮らしにもことかく人にとっては戦争はチャンスなのだ。戦争に勝てば、今までゼロだった財産が少しは手に入ると思えば、戦争をしたほうが圧倒的に得ではないか。現在では武器も強力になり、戦争をすれば利益よりも、現在の生活での失うもののほうが大きいから、戦争なんておろかとしかかんがえられないが、古代では戦争は自分の生活のレベルアップの手段なのだ。

 つまり、民主政治が徹底すればするほど戦争をしやすい傾向が出てくる。経済的には平等ではないが、政治的には平等な権利を持つわけだから、貧乏人としては戦争をしたくてしたくてたまらない。戦争万歳なのだ。戦争をしたい貧乏人たちと、政治のリーダーとなりたいお金持ち出身政治家の迎合が戦争を推し進める。戦争とは経済活動なのだ。

 このまま一生貧乏で惨めな生活が続くなら、いっちょ戦争でも行って、一旗挙げてやるかとおもう人っているだろう。とくに隣にカモになりそうな弱小国があればなおさら……


12/16 北朝鮮本音トーク

 先日、東京新聞を買った。電車の中で読むのにちょうど良かったからだ。社会面のかなり大きな部分を使って、北朝鮮に帰国した元在日朝鮮人のことが書いてあった。

 写真入で出ているのは日本に住んでいる妹さん。彼女の兄は元在日朝鮮人で、東北大学大学院生だったとき、当時の帰国事業に参加し、日本人の奥さんとともに北朝鮮に帰国した。北朝鮮に行けばモスクワ大学に留学できるという話を聞いての決断だったようだ。行ってすぐに大学の教員の仕事を得て、元気でやっているとの手紙が日本の家族に届いた。ところが数年後になると事情が変化したようで、あれこれおくってほしいとの手紙が届き、そのうち教化所にいかなければならないとの手紙が届いたようだ。その後数年音沙汰無かったが、奥さんから「子どもたち三人と四人での暮らしが始まって」とかかれた手紙が来たことによって、どうやら兄が死んだらしいとわかった。総連などに問い合わせると、兄は収容所から脱出して国外逃亡を図り、射殺されたとのことだった。妹さんによると、いまだに兄一家の生存を信じて、日本政府に救出を訴えているとのことだった。

 妹さんによると、帰国事業は日本政府と赤十字の責任であると言う。でも、私はこの記事を読んで、気の毒だと思ったが筋が違うのではないかと思った。彼女の立場には同情するし、兄を助けたいと思う気持ちはわかる。が、彼女のお兄さんがこんな目に会うことになったのは果して日本政府の責任なのだろうか。日本において差別がひどい状態であり、年金制度がなかったなど、当時の在日朝鮮人に対する政策の不備や、帰国事業についても、きちんと正確な情報を出さずに、安易に支援したのは確かに日本政府の間違いだと思うが、彼女のお兄さんがこんな目に会ったのは日本政府の責任ではないように思う。

 むしろ、彼女が責めるべきなのは北朝鮮本国の劣悪な状況ではないだろうか。お兄さん一家が食べるのにも苦労するほどの生活をせざるを得なかったのは日本政府の責任ではないし、収容所に入れたのも日本政府ではないし、射殺した(?)のも日本政府ではない。すべて北朝鮮の政府である。もちろん彼女としては北朝鮮に何のパイプも無く、日本政府にしか訴える手段が無いのだろうが、だが、日本政府の責任と言うのは間違っているように思う。

 もし、彼女が自分の兄を助けたいからどうか日本政府になんとかしてほしいとか、日本人の同情に訴えるならわかるが、日本政府の責任だと言うのには違和感を感じるのだ。日本の在日朝鮮人に対する対応は悪すぎた。が、北朝鮮が今日のようにひどい状況になったのは日本のせいではない。帰国事業が行われていた当時、北朝鮮にはソ連からの支援があったし、当時の社会主義というのはいまとちがって、理想的な制度であると考えられていたのだ。おそらく多くの北朝鮮人は日本での差別の問題もあっただろうが、祖国に対する愛国心や、社会主義に対するあこがれもあり、いまだ発展途上にあったとしても、今後の北朝鮮の発展に賭けて帰国を決意したのだろう。その決断は間違っていなかったと思う。その当時はだれもがその後ここまで悪化するなど思いもよらなかったのだ。当時の北朝鮮政府も、朝鮮総連も、日本政府も、そして北朝鮮人自身も予想だにできなかったのだ。

 北朝鮮が良い国になるのか、悪い国になるのか、その当時は誰もわからなかった。結果的に長い目で見れば騙されたという感覚なのかもしれないが、それは結果論であって、なんともいえない。戦前も日本人が貧しさから逃れるためにアメリカなどに多くの人が移住した。差別や貧困と戦って、多くの人が苦労したし、騙されて死んでいった。もちろん、そこから這い上がって一財産築いた人もいる。が、それらは政府の責任とかそういう問題ではないのだ。日本にいてもそれなりに戦わなきゃならない。外国に行ってもそうだ。どちらがより幸福かなんてわからないのだ。

 ただ、人生にはやり直しがあってもいいとおもう。人生に失敗しても何度もやり直せるのが正しい社会だと思う。もし、北朝鮮に帰国して失敗したなと思う人がいるなら、もういちどやり直すチャンスがほしいと思うのは当然じゃないかなと思うのだ。人間として。だから、家族が助けたいと思い活動するのはいいとおもう。でも、正すべき相手はいったい誰なのか、それをきちんと整理しないといつまでたってもなにもかわらないのだ。

 なぜ、彼女は北朝鮮に間違いを正そうとしないのだろう、自分の兄一家が苦労していて助けたいと思うのは人として正しい思いだが、同じように苦労している人が北朝鮮にたくさんいるのだ、兄一家だけが助かればそれでいいのか?もし、そうおもっているのなら、決して誰も救われないと思う。どうして兄一家を日本に帰らせようとするのか?祖国を自分たちが自慢できる良い国にしようとはおもわないのか。

 在日朝鮮人は今、重大な問題を突きつけられていると思う。在日朝鮮人の人々は日本での差別に苦しんできたが、いまや祖国の問題でも苦しむ時期が来た。自分たちのアイデンティティはいったいどこにあるのか、自分のいるべき場所を本当の意味で見つける必要があるのではないかと思う。


12/3 宮部みゆき「火車」

 宮部みゆきの最高傑作ともいわれる「火車」を読んだ。これは「かしゃ」と読むのだが、話の内容からすると「火の車」だなあとおもう。

 宮部みゆきは推理小説というより犯罪小説を書く人といったほうが適切かもしれない。この「火車」も推理小説ではない。なぜなら単なる失踪事件の捜査から始まり、実は犯罪が絡んでいたとわかるのはぎりぎり最後になってからだからだ。

 宮部みゆきはこの作品を非常に計算して作っており、どうでもよさそうに見える設定やエピソードが実に効果的に使用されている。テーマはクレジットによる多重債務なのだが、それだけではなく、一般人が持っている虚栄心とか、嫉妬などが複雑に絡み合っていることをあらわした社会派の作品だ。自分自身の姿を客観的に見て、一歩一歩歩くならば決して見失うはずが無いことが、ちょっとしたことにより見落とされ、幸せを追いかけていたはずが不幸への階段を上っていたことに気付く。全体的に非常に不幸な作品なので、落ち込んでいるときに読まないほうがいいとおもう。

 蛇足だが、宮部みゆきはけっして文章が洗練されているとはおもわない。なんとなく。


11/21 子どもにいったい何がどれだけわかるのか

 よく両親が美術館に出かけるのについて行った。実を言うと美術館がすきなのは母のほうで、父はそれほどでもないが、それでも親子三人でよく行った。また、母親は演劇を見に行くのも好きで、私を連れてよく劇を見に行った。

 今思い返してみると、私が小さい頃そういう美術館に連れて行ってもらったことや演劇に連れて行ってもらったことが、はたしてどれだけ幼い私に理解できたのか、楽しめていたのかと言われると、記憶もあいまいになっているし、自信もない。小学生のとき、足立美術館に連れて行ってもらって、横山大観の絵をたくさん見たが、どちらかと言うと大観の絵よりも足立美術館の綺麗な庭園のほうが印象に残っているぐらいなのだ。

 私も今大人になってみると、芸術を鑑賞したとき、これは子どもが理解できるのだろうか、子どもが見ても面白いとおもうのだろうかとふと感じることがある。冷静になって考えてみれば、大人であればみんな理解できるわけでもないのだから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないし、たとえ理解できなかったとしても問題ないのだろう。それに、子どもに芸術が理解できないと考えるのは大人の偏見だろう。子どもでも大人っぽい子もいるし、大人でも子どもっぽい人もいるのだから。

 私も子どもの頃のあの体験がはたして理解できていたのか、それがどれほど意味があったのかというのはわからない。なかったのかもしれない。ただ、間違いなくいえることがある。この世には美術館というものがあって、演劇というものがあって、それはこういう風に鑑賞するのがルールなのだということを知った。あの静寂が要求される場所に、黙ってじっと目を凝らして鑑賞する。そういうことを学んだ。それは間違いなく私にとって重要だったに違いない。

 「子どもを連れて行くところじゃないよ。」「子どもにはどうせわからないよ。」とそんなことを考えちゃいけない。ふとそうおもった。


11/13 半落ち

 最近本屋で平積みされているので、知っている人も多いと思うが「半落ち」という小説がある。ジャンルで言うなら、ミステリーになるのだろうか。しかし決して推理小説ではない。なかなか新しいスタイルの小説ではないだろうか。

 感心してしまうのは非常に練って作られている作品だからだ。警察官がアルツハイマーをわずらっている妻を殺した。警察官の自首によって、警察組織はこの不祥事に頭を抱える。警察官は自分の罪を認めていたが、なぜか妻を殺してから自首するまでの2日間の間、いったい何をしていたのか決して語ろうとはしなかった。それでも犯罪自体については認めているから順調に取調べが進み、立件され、裁判が行われ、刑が執行される。それらの一連の流れを決して時間に逆らうことなく書きながら、6人の登場人物の視点からこの警察官を書いている。こういうのはかなり練らないとかけない作品だ。

 ちなみに最後にこの警察官がいったい何をしていたのか、なぜそれを語ろうとしなかったのかはわかる。それ自体についてはあまり面白いとはおもわなかったのだけれど、この警察官の犯罪を見守る6人の人物、幹部警察官、検事、新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官はそれぞれ魅力的だ。非常に読み応えのある作品だとおもうので、おすすめする。


11/3 レオニダス・チョコ

 友人タロイモ氏推薦の「レオニダス」のチョコレートを渋谷まで買いに行った。東京にはレオニダスのお店がいくつかあるようだが、渋谷が一番近いと判断したからだ。渋谷駅から南に少し歩いたところにあるお店で、いわゆる渋谷の中心地の逆方向になる。大きな道路に面してはいるが、決してショッピング客が大勢歩くところではないだろう。

 小さなチョコレートショップだが、きわめて愛想のない若い女性のアルバイト店員が二人いるだけで、日曜日にもかかわらず客は全くいなかった。ヒマなんだろうなと思った。ヒマなバイトというのは楽なようでつらいものだから、少し同情した。レオニダスのチョコは量り売りということだった。100Gで500円ちょっと。決して安くはないが、この手のトリュフチョコとしては比較的安めになるのかもしれない。こういうトリュフチョコは一粒いくらという値段がついているのが普通だからだ。

 こういうチョコレートは殆どが贈答用なのだろうが、私はあくまで個人的な買い物だったので、4つだけ購入した。350円程度だった。家に持ち帰り、早速食べてみた。

 まず、びっくりしたのはトリュフなのに硬い!ということだった。トリュフって硬いんですか?硬いコーティングの中にどろっとしたやわらかいチョコレートが入っていた。また、トリュフじゃないチョコも買ったが、こちらは表面は固くなかったが、中はさっくりとした感じ。

 申し訳ないが、まずいとは思わない。ビターチョコの濃厚な風味はおいしい部類なんだろうが、わざわざ買いに行って食べるほどのものではないなと感じた。この手のチョコレートとしては明らかに割安だろう。でも、わざわざ足を運ぶ魅力は感じられない。残念ながらわたしにいわせれば、近くのスーパーで売っているメルティー・キッスのほうがよっぽどおいしいと感じる。きわめて残念なことだ。なぜなら明らかに口解けが違うのだ。

 しかし、ゴディバなんて一粒300円からだし、それに比べれば安い。モロゾフあたりのチョコレートにも見劣りしないので、ちょっとしたお使い物には便利かも知れないとは思う。でも、わたしはメルティー・キッス派なのだ。


10/20 招かれざる客

 せっかくDVDを手に入れたので、よくレンタルショップに行ってDVDを捜すのだが、まだまだVHSほど品揃えが良くなくて、なかなか希望の作品に出会えない。パソコンの小さい画面で見るのだから、迫力満点が売りのアクション映画なんて見ても仕方ないし、ラブストーリーを1人パソコンの前で見る趣味はないし、ホラーは苦手だし、なかなかちょうどいい作品が見つからないのだ。で、たまたま見つけて借りてみてヒットだったのが「招かれざる客」という作品だ。アカデミー賞受賞作品だということだが、確かに名作。おすすめする。

 舞台はロサンゼルス。若いカップルが、自分たちの婚約を両親に報告するためにやってくる。彼女の父親はロスで新聞社を経営している社長だ。彼女のほうは自慢の彼氏を両親に早く紹介したくてわくわくしているが、彼の方は心配げ・・・。なぜって、彼女は白人、彼は黒人だから。

 彼女は二人の人種の違いなど全く気にしていない。「私の両親は理解があるから大丈夫。」と明るく振舞っている。しかし、彼のほうはそんなに簡単に認めてもらえるはずがないと不安になっている。とにかく、彼女の家に行く。彼女の母親は久しぶりに会う娘と娘が連れてきた彼を喜んで招き入れる。だが、「二人が結婚するのだ。」と話すとたちまち顔色が変わる。彼女の父親も娘が黒人と結婚するということに動揺を隠せない。とりあえず、娘のボーイフレンドになにか問題がないか調べさせるが、返ってきた答えは立派なものばかり。大学を優秀な成績で卒業した医師で、30代にして大学教授、彼の研究はどれもすでに高い評価を受けているという返事。実際に父親が彼と話してみても受け答えも実に紳士的で、知的。どう見ても欠点が見つかりそうもない。はたして、両親は二人の結婚を認めるのか…。

 なんといってもすばらしいのは俳優の演技。彼女の両親、彼の両親を演じる俳優たちは、ベテランたちですばらしい演技だ。白人の彼女を演じているのは、キャサリン・ヘップバーンだが、実に美しいし、彼氏役のシドニー・ポワチエも実にすばらしい紳士を完璧に演じている。この演技を見るだけでも価値がある。

 非常に印象に残ったのが、彼女の母親が最後まで二人の結婚に難色を示す夫に言った言葉だ。「私たちは娘に『人種で差別してはいけない。』と教えました。そして娘はそのとおりに育ったのです。」

 新聞社を経営して、社会の問題点を鋭く指摘してきたリベラル派の紳士だったはずの父親もわが娘の結婚となると迷う。人間の矛盾点をついたすばらしい作品だと思う。


10/17 ねじ式 

 私はマンガが好きなので、よくマンガの評論サイトなどをまわって、面白そうなマンガを捜す。そして、本屋で購入する。そこでいつも気になっていたマンガがあった。つげ義春の「ねじ式」だ。漫画好きのひとが開いている漫画評論サイトの一覧には必ずといってもいいほど顔を出す名前だが、おそらく殆どの人が名前を聞いたことがあるぐらいまたは、全く知らないだろう。なぜなら、なかなか本屋に並んでいないからだ。本屋どころか古本屋でもめったにお目にかからない。

 お互いしのぎを削る大不況の出版業界、ましてや人気のない本は一週間もせずに本屋の棚から下ろされ返品されるのだから、売れ筋でない本を本屋の棚から見つけ出すのは至難の業だ。だが、なんとなくわざわざ注文してまで入手しようとするほどの漫画マニアでもないので、いままで本屋の棚を注意してみていたが、残念ながら「ねじ式」を見つけることが出来ずに、購入するチャンスがなかった。が、昨日たまたま、新しく駅前に出来た本屋のマンガの棚に並んでいたのだ。最近はもう一般的になった文庫本サイズの復刊漫画だ。早速購入して読んでみた。

 感想はスバリ。「へー。これがあの『ねじ式』なのか・・・。思っていたのとは違うな。」ということ。そして、ずいぶん古い作品なんだなということだ。1968年の作品だからもう30年以上前の作品だ。たしかに30年と考えると、こういうマンガは画期的だったのかもしれない。「デビルマン」とか「ベルサイユのばら」などよりも古いわけ。私は古い漫画マニアではないので、この時代はどういうマンガが人気があり主流だったのかは把握していないが、明らかに異色作だったと思う。いまだとそれほど珍しいとはいえないかもしれない。

 この作品にまともなストーリーはない。作者いわく「見た夢をそのままマンガにした。」とのこと。内容は支離滅裂で、この作品から意味を見出そうとすることこそ愚かしいように思われる。イラストも統一感がなく、妙に雑に書いてあるコマがあると思えば、妙に丁寧に写真のようにかかれているコマもある。本人がいろいろな絵を描き分けているのか、それともアシスタントに頼んだからそういうふうになっているのかよくわからないが、たぶんアシスタントではなく自分でそう描いているのだと思う。 ある程度、つげ義春の話には聞いていて、こういうマンガを見たなら「へー。」って納得する部分もあるが、もし、こういうマンガが雑誌の間から突然現れたなら仰天するだろうなと思う。

 この「ねじ式」はわずか20ページの作品だ。つげの作品の殆どが短編(というか長編があるなんて話を聞いた事がない。)だ。この600円の単行本にはほかにも彼の代表作が数作品載っている。それらはいくつか大別できる。一つは「ねじ式」のように全体に謎めいた意味不明のストーリー展開と、なんとく卑猥でエロティックな雰囲気をもつ、不条理な作品。そして自分の体験を下敷きにした私小説的作品だ。自分の体験を下敷きにしている作品のほうが圧倒的にわかりやすいので、そっちを先に読んだほうがこの作家を理解しやすいと思う。「ねじ式」だけを読んだのではなにがなんだかわからないだろう。

 つげ義春についてちょっと検索をかけてみたら、彼について書いているサイトはたくさんあったので、簡単にプロフィールを知ることが出来た。彼は前述の通り私小説ならぬ私漫画家なので彼のプロフィールを知らずして、作品を理解することは出来ない。

 ざっと解説してみると、1937年生まれ。貧しい家庭に生まれて、子どもの頃は養父に虐待されたりしながら育ったらしい。小学校卒業後メッキ工になるが、20前後で漫画家になる。いくつか作品を発表した後、20代後半頃からいわゆるエンターテイメント性のない純文学風の作品を書き始め、「ネジ式」で注目を浴びるようになる。その後は1987年に事実上漫画家を止めて、現在にいたっているようだ。作品のいくつかは映画化もされているようだ。

 彼の貧しい生い立ちと、漫画家になっても殆どヒット作がなく、生活に苦労に苦労を重ねたという感じが作品からものすごい臭いを放っている。どの作品の主人公のいかにも貧しそう。主人公の立っている場所の背景の建物も風が吹いたら壊れそう、というか壊れないのが不思議なようなたてもの。夢も希望も感じられないのだ。貧しさの描写は本当にリアルで、貧しい人々への同情でもなく、軽蔑でもなく、ただ淡々と貧しさがどうしようもなく逃れられないものなのだと感じさせるのだ。昔のマンガだと落ちこぼれが努力で認められるとか、貧しい生い立ちの人物が才能を活かして成功するとかいう作品が主流だった気がするが、つげの作品には貧しさから立ち上がり成功するという幻想は全く存在しないのだ。日本に高度経済成長が存在しなかったのではないかと思わせる。貧しさと退廃が一緒になり、それに淫猥な雰囲気が混じり、八方塞の闇の中で、モガクでもなくただ佇んでいる。そういう雰囲気だ。貧乏がいかに残酷なのかこれほどリアルに示した作品も少ないだろう。作者の実感がこもっている。

 わたしが手にしたこの本の中で一番印象に残ったのが最後に掲載されていた「ある無名作家」という作品である。この作品は明らかにノンフィクションだと思われる。

 主人公が子どものためのこいのぼりを挙げているところに昔の漫画アシスタント仲間だった奥田が少年を連れて尋ねてくる。久しぶりの再会に川の土手で酒を飲むことにする。そして奥田との思い出の回想シーンとなる。奥田は大学で英文学を専攻した後漫画家になった異色の人物で、英字新聞を読むような人だった。主人公がAさんという漫画家のアシスタントになってすぐ、奥田はAさんのアシスタントを辞めた。主人公がおなじアシスタント仲間と一緒に奥田を訪ねると、奥田はアシスタントを辞めた理由をこういった。「人の作品のまねではなく自分の表現をしたい。」と。そして主人公に「あなたはキャリアもあり、自己表現をしている作品も描いているのになぜアシスタントをするのか。」という。それに対して主人公は「あれはひどく不評でした。人の手伝いをして食っていければそれでいいんです。」と答える。その後奥田はかなり生活に困っている様子だった。主人公は昔自分が漫画家をしていたとき、ひどい貧乏で悲惨な生活をしていたことを思い出し、あんな生活をするぐらいなら人の手伝いでも生活できればましだと思った。主人公は奥田の貧乏振りを見過ごせず、また、自分もアシスタントの仕事が忙しく、自分自身の作品を書きたいと思いながらもひまがないので、自分の作品の背景などの手伝いを奥田に依頼した。しかし、それは奥田のプライドを傷つけることになる。その後、主人公の作品は多少注目されるようになる。そうなると奥田は「俺が手伝っていることをばらしてやる。」などという。主人公は「たかがマンガじゃないか。」と思う。その後、奥田はバーテンなどをやっていたようだが、主人公はもう奥田とは付き合わなくなっていた。しばらくすると、今度は奥田が結婚したと言う噂を聞く。友人とともに行ってみると、奥さんとその連れ子と暮らしており、奥さんは米兵あいての売春婦をやっており、その稼ぎで奥田は暮らしていた。奥田は自分の堕落した生活を自嘲し、「わたしをモデルに甲斐性なしの亭主の話を書きませんか?」などという。奥田が少年と尋ねてきたのはその時以来だった。その後奥田は奥さんに逃げられて、子どもと一緒に暮らしており、近所の子どもたちに英語を教えて生活しているという。その後ふと気付くと、おつまみを買いにいかせた少年がいつまでも戻らないことに気付く。奥田と主人公が捜しに行くと、迷っていたのだ。主人公はふと、今日が子どもの日だとということに気付いて、奥田に菖蒲を買ってあげる。そしてその夜、自分もまだ赤ん坊の自分の子どもとともに菖蒲湯に入る。そしてふと昔自分が義父に虐待されたことを思い出す。

 この奥田という人物。おそらく本名ではないだろうが、実在する人物だろう。大学出で、英字新聞を読むようなインテリ、自己表現をしたいという野望を持ちながら、実際は全く報われず、次第に貧乏に負け、堕落し、そして夢をあきらめる。そんな奥田が昔の自分の堕落をよく知っている主人公を自分から訪ねたのはいまの息子との生活、そして近所の子どもに英語を教える生活にある程度の希望を見出したからだろう。そうでなければ自分から主人公を尋ねる理由はない。なぜつげがこの作品を書いたのか。それはこの奥田という人物に対する深い同情の念からだろう。そして奥田と自分に共通点を見出しているからだ。

 つげも奥田もまちがいなく才能がある。才能があるがまったくそれが収入や社会的地位に結びついていない。才能がないならあきらめもつくが、才能があるだけにいらだつのだ。つげも一部のマニアには熱狂的な支持を受けており、間違いなく才能がある人物だろう。が、それが収入に結びつかない。これはつらい。

 つげの作品を何度もよみかえしてみて、ちょっと考えてみた。このつげ義春がなぜ一部のマニアに熱狂的に支持されながら、けっして売れっ子になれないのか。それは彼が非常に感受性が高いのに、表現力が不足しているからだと思う。この世には感受性の高い人というのがいて、普通の人なら「当然」とか「世の中そんなもの」と思ってそれほど気にとめないことでも、残らず感じ取らずにはいられない性能のいいアンテナのような人がいる。つげは普通の人よりも鋭敏な感覚を持っているのだが、それで感じ取ったことを自分の中から再び表現するときの表現が足りないのだ。だから、作品が非常にわかりにくく、つげ同様に鋭敏な感覚を持っている人ならつげの考えを感じ取れるのだが、そうでもない一般の人にはただの不可解な話に過ぎないのだ。これではヒットしない。読者に求めるハードルが高すぎるのだ。まあ、それを前衛的といってしまえば簡単だが。

 それ以上にヒットしないと思われる理由は想像力の不足だろう。これのほうがおそらく致命的だ。たとえつげ義春が貧乏な生まれであったとしても、いくらでも想像の世界で自分とは違った世界を生み出すことができるはずである。が、つげの作品の背景はすべて「貧乏」の二文字で埋め尽くされている。自分を取り巻く貧乏という現実の悲惨さを鋭敏に感じ取りながらも、いや、感じ取るがゆえに逆に貧乏を超えた希望とか未来とかそういうものを想像できないのかもしれない。つげの作品には暗闇の先の光を見出そうという意思が感じ取れないのだ。したがって、マニア受けはするが、一般受けはしない。

 それと読んでいて非常に気になる点がもうひとつある。私の購入した短編集は1960年代の作品から1980年代の作品までいろいろな短編が入っているのだが一つ一つの作品の絵の書き方がバラバラなのだ。もちろん通常漫画家の初期の作品はそれほど巧くなくて、年を経るごとに上手になり、絵柄が変化していくのが普通である。また、時代によって絵柄が変化するのも当然だ。が、つげの絵の変化の仕方はいわゆる「下手→巧い」とか、「昔風→今風」というような変化の仕方ではない。むしろ絵のタッチそのものが全く違うのだ。これほど絵のタッチがはっきり違うのは極めて珍しいと思う。もちろんわたしは彼の作品の全てを見たわけではないのだが、いったいつげ義春らしい絵ってどれなのだろうかと戸惑ってしまう。

 「ねじ式」は非常にわかりにくい作品だし、一般受けはしにくいが、一度読むと忘れられない深いインパクトを持った作品であることは間違いない。購入する機会はめったにないとおもうが、短い作品なので、見かけたら目を通しておくことをお勧めする。


10/10 才能

 ノーベル賞の話題でもちきりだ。日本はノーベル賞受賞者が少ないことが悩みの種だったから、このダブル受賞に沸くもの当然だ。ましてやほとんど無名に近い若手エンジニアの受賞となればフィーバーして号外が配れるのもうなずける。優れた人がえらばれ、たたえられるというのは本当に良いことだと思う。

 私は思うのだが、才能があるということと才能を生かせるということ、才能が評価されるということはそれぞれ全く違うことであると思う。才能を持っている人の幾人かが才能を生かすことが出来ているのであり、その才能を生かしている人の幾人かが世間から評価を受けているのである。だから、実際に才能を持っている人と、世間から才能ある人と認知されている人の数は大きな隔たりがある。

 おそらく多くの人は自分は才能があると評価されているとは思っていないだろう。難しい話だがひとが才能があるかどうかを評価できる人というのも少ないので、なかなか難しいものなのだ。自分は回りの人の才能を認めることの出来る人だろうかと自問自答してみるとなかなか難しい。家で日曜日ごろごろしている足のクサイお父さんも会社ではそれなりにやり手だったりするかもしれないのだが、はたして家族はそれがわかっているのだろうか。いつもお母さんが何気なく作っている料理でも、はたして自分に同じ味が出せるのだろうか。そう考えてみると意外と周りには才能ある人がいるものなのだ。 


10/8 グルメ

 久しぶりに山口の実家に帰っていた。久々に押入れの奥からファミコンを取り出し、ファイナリファンタジー3などをやったりしてすごした。

 今回の帰省で二つの絶品に出会ったので、ここで紹介する。一つは吉野ケ里遺跡に遊びに行った帰り、九州自動車道の古賀サービスエリアでたまたま見つけた「ざる豆腐」だ。たくさんのお土産品の中にあって一つ600円もするざる豆腐は異彩を放っていた。親があきれていたが、ありきたりのお菓子をお土産に買うよりはと思って購入。これが今まで食べた中で一番最高の豆腐だ。まるでチーズのような滑らかさ。しょうゆをほんのちょっとたらしただけで他に何も薬味をつけなくても非常においしい。これは高くても価値のある味だ。ちなみにこの豆腐はグルメの間ではかなり有名な豆腐だとあとでインターネットで調べて知った。三越百貨店で売っていると言う情報があるので、食べたい人は試してみてほしい。ちなみに、豆腐店は九州の唐津にあるというので、九州の方はぜひ行ってみてはいかがだろうか。東京のお店でもこの豆腐をメニューとして出す店があるらしい。でも、店で食べると高いと思う。

川島豆腐店HP http://www.zarudoufu.co.jp/

 もう一つはずっと前から食べたいと思っていた博多のチョコレートショップのトリュフチョコだ。このチョコレートショップというお店はもう超有名店なのだ。HPから地図を印刷して持っていったが、本当にわかりにくいところにある。福岡地下鉄の祇園駅から歩いて10分程度のところにあるのだが、これは知らないといけないだろう。お店自体はとっても綺麗でおしゃれ。お店はあくまでチョコレートショップなのだが、どうやらケーキのほうが売れ筋のようだなと感じた。ケーキは300円から400円程度なので、特別高いとはおもわないが、小さなトリュフチョコが130円から180円なんだから、チョコレートはそれほどたくさん売れないのも仕方ないかもしれない。しかし、ここのチョコレートは実においしい。わたしは4つだけかって帰ったのだが、その口どけの滑らかさに感動した。はっきりいって、一度ゴディバの一個350円するトリュフを食べたことがあるが、あれとは比べ物にならないほどこちらのトリュフのほうがおいしい。一個150円もしたがその価値はある。お店の人もとても礼儀正しくサービスも行き届いている。日本一との評判もうなづけるチョコなので、博多に行ったときはぜひ行ってみるといいだろう。博多駅からだと歩いて15分ぐらいかかるが決して歩けない距離ではない。

チョコレートショップHP http://www.kyushu-cake.com/fukuoka/chocolate/


9/30 芸術はすべてに優越するのか

 先日テレビのニュースで、作家の美里さんが最高裁で上告を棄却され、裁判に敗訴したのを知った。彼女の作品のモデルとなった女性が、プライバシーの侵害を理由に彼女の作品の出版差し止めと賠償金を求めていたのだ。柳さんはこの判決を不服として会見を行っていた。それを見て思ったことを書く。

 はっきりいう。私は柳美里さんの作品を読んだことはない。今回問題となった作品もすでに文芸雑誌上では掲載されていたものらしいが未読である。だから、最高裁の判決については具体的にあれこれ言う立場ではないと思う。

 ただ、気になったのは会見をちらりと見た限りにおいて、柳さんは「表現の自由」ということを主張しており、芸術はプライバシーよりも重要であると考えているようだ。彼女の作品の多くがいわゆる日本の伝統的な「私小説」であることを考えると、彼女がもし自分を含めた周囲の人を書くことが出来ないとなれば、作家として死活問題だろう。彼女がそう主張するのはわかる。

 なんでもそうだが、往々にして一方の主張する権利と、他方の主張する権利、どちらももっともな言い分でどちらのほうがより優先すべきことなのかについて簡単には判定できないことがある。この場合は「プライバシーの保護」と「表現の自由」が正面からぶつかったわけだ。最高裁は「プライバシーの保護」に軍配を挙げた。

 この事件について世間の論調を見るとおおむね、最高裁の判決のほうが支持されているようだ。一般人の多くがいわゆる柳さんのように芸術家でもプロの表現者でもなく、むしろ、もし知り合いに自分をネタに書かれたらいやだろうなとおもう人のほうが圧倒的だろうから、それはそうだと思う。私も自分の容姿や経歴をそっくりそのまま小説化されて出版されたらきっとつらいと思うのだ。

 もし、自分の体験とか一言のセリフとかエピソードを友人に話して、その友人が私の話したことを元ネタにして小説を書くなら別に私も気にしない。が、たとえばそれが容姿だとか、経歴だとかそういうことになれば話は別だ。ましてや顔に腫瘍があるなんて決定的なことを小説に書かれたら、ショックで寝込むのは間違いないだろう。だから訴えた人の気持ちはわかる。

 はっきりいって、彼女の作品がいかに文学的に価値が高く、日本文学史上に残る傑作だったとしても、この判決を支持する。どうしても出版すべきほどの傑作なら、モデルの女性の死後にでも出版すればいいと思う。そうすれば、誰も傷つかず、そして作品は作者の希望どおり世間の人に読んでもらえるだろう。

 柳美里も母親なら考えてみればわかると思う。もし、自分の息子のことを第三者がはっきりとわかる状態で小説のネタにしたならどう思うのか。もし、彼女が芸術のためならそれもかまわない。たとえ我が子がどんなに傷ついてもかまわないと言うなら、彼女は真に芸術家と言えるかもしれない。

 芥川の小説にあったが、地獄の絵を完成するために娘を焼いた絵師の話がある。あれを真にやってのけるなら、それもいいだろう。だが、私なら芸術のために我が子を焼いたりはしない。それはそれぞれの価値観かもしれないが。


9/22 永遠と一日

 アンゲロプロスの最新作?の「永遠と一日」がNHK教育で放送されていました。たまたまTV一覧表で見つけて見てみました。アンゲロプロスは「旅芸人の記録」以来でしたから、作品の作成年数としてはずいぶん期間が開いていますが、作品の感じとしては全く同じでしたね。あれがアンゲロプロスの作品の特徴なんでしょうね。

 まあ、内容は特に無いです。近い死を覚悟した老詩人がたまたま見かけた難民の少年と一日だけの旅をするロードムービーで、その間にすでに無き妻との思い出などを振り返ると言う内容。内容は比較的ありがちなテーマです。アンゲロプロスの作品はいわゆる説明というものが全く無い作品なので、映像や登場人物のセリフの一つ一つを見逃さないようにしっかり見ていないと、内容が把握できないのに、非常にストーリー展開が遅く、途中で眠たくなるという問題点があり、今回も眠いです。ただ、映像が非常に印象的で、思わずはっとさせてしまうようなシーンが途中に何度か出てくるので、途中で眠気から冷めます。

 実は「旅芸人の記録」ではあまり気が付かなかったのですが、今回「永遠と一日」を見て気づいたことが一つあります。アンゲロプロスファンなら当然知っていることなのかもしれませんが、アンゲロプロスの作品はギリシア悲劇と同じなんですね。つまり、主人公とそれに相対する相手役があり、その周りにコロスがいるというわけです。当然コロスはしゃべりません。話は主人公とその相手役の会話、登場人物の独白、そして、コロスの動きがその場の雰囲気を作り上げています。映画なんだけれど、基本的に演劇なんですよね。アンゲロプロスの作品にはいわゆるエキストラというのが全く存在せず、主人公の後ろにいる人々はエキストラではなくコロスです。だから普通の映画と同じ感覚で見るとすっごく不自然なんです。後ろの人々の動きが・・・。

 あいかわらずこの作品も冬のギリシアが舞台です。雪に埋もれたギリシアが非常に綺麗に撮れています。これも意味があって、現在のシーンが冬のギリシアだけれど、亡き妻との思い出のシーンは夏なんです。(奥さんは夏物のワンピースを着ている。)妻との美しい思い出が夏のギリシア、現在の死を目前にした自分が冬のギリシアなんですね。


9/20 グリーン・マイル

 先日テレビで『グリーン・マイル』を見た。まえまえから評判の高い作品だったが、なぜかビデオを借りてまで見ようと思わなかったので、そのままになっていた。tたまたまテレビでやっていたから見たのだ。

 主人公は刑務所で勤務する刑務官。刑務所にいるのは重大犯罪を犯して死刑判決を受けた凶悪犯ばかりだ。そんな刑務所に二人の少女をレイプして殺したとされるジョン・コーフィーが収監された。人一倍大きな体をしているが、なんだかちょっとおかしなところもあるジョン・コーフィーは体が大きい割には妙に臆病そうなところもあった。しかし、そんなジョン・コーフィーがあるとき刑務官が長年困っていた尿道結石を不思議な力で直したことにより、刑務官はジョンに特別に信頼を寄せる。その後、ジョンはみんなのまえで踏み潰された瀕死のネズミを生き返らせたりと不思議な力を見せる。刑務官はジョンは特別な力をもっているのだと確信する。

 そんなとき、刑務所の所長の奥さんが脳の病気でもうかなりの重体になっていることを知る。なんとかして所長の奥さんの病気を治したいと思って、ジョンの力を借りようとする。刑務官は同じ職場の仲間たちと相談して、ジョンをこっそり刑務所から連れ出し、所長の家に連れて行く。そして、ジョンは所長の奥さんの病をすっかり治してしまったのだ。しかし、ジョンは奥さんの病を吸い込んでしまったため、今度はジョンが具合が悪くなってしまった。具合の悪くなったジョンを必死の思いで再び刑務所に連れ帰った。刑務所にもどったジョンは刑務官の中の問題児で、他の刑務官や囚人たちに残虐なことをしている悪い刑務官にその奥さんから吸い込んだ病を移した。悪い刑務官はジョンから病を吹き込まれたことによっておかしくなり、刑務所に収監されていた凶悪犯を銃で撃ち殺してしまった。刑務所は大騒ぎになり、その悪い刑務官は精神病院に送られた。ジョンは刑務官にあの殺された凶悪犯は実はジョンが殺したとされる少女たちを殺した真犯人で、ものすごい悪い奴だったので、殺したといった。ジョンは相手に触れたときにその頭の中にあることを知る力があったのだ。ジョンは刑務官に触れて、あの凶悪犯がいかに悪いことをしてきたのかを見せた。

 刑務官はなんとかしてジョンの無実を晴らしたいと思ったが、すでに裁判は終わり刑は確定している。新しい証拠があるわけでもなく、ジョンの死刑を止めるすべは無かった。せめて最後にジョンの好きな食べ物を聞き、ジョンの最後の願い「映画を見たい。」という希望をかなえてやるのが精一杯だった。刑務官はこっそりジョンを逃がそうかとも思ったが、ジョンはそれを断る。人の心の中を見ることの出来るジョンは、すでにこの世の人間がいかに残虐かを知っており、生きていくことに疲れていたのだ。そして、ジョンは死刑を執行され、死んだ。

 刑務官はその後刑務所を辞め、少年たちの更生施設施設での仕事についた。その後引退して、何年も生きた。不思議なことにあのジョンが助けたネズミもまだ生きている。自分がもう100歳を過ぎてもまだ生きていることに、自分の妻も子どもも死んでしまったのにまだ生きていることに逆に悲しさを感じている。ジョンに触れたとき、自分はものすごい寿命を手に入れてしまったと気づいたのだ。一体いつになったら自分に死が訪れるのかとおもいながら、生きている。

 この作品の問題点を先に挙げると、まず悪役が濃すぎる。ほんとうに悪い奴で、この世にこんな悪い人間は探してもなかなかいないと思われるほど悪人だ。あまりの悪人ぶりに思わず引いてしまう。だが、全体的には非常に良作だと言える。

 この作品の一番のポイントは主人公のジョン・コーフィーがキリストであると気づかなくてはいけない点だ。つまり、人を癒す奇跡を起こし、そして無実の罪で死んでいくジョンはキリストのイメージなのだ。これに気づかなくてはこの作品の真の意味は理解できないだろう。キリスト教徒なら一目見てわかることだけれど、日本人だと気づかない人も多いかもしれないと思う。ジョンがキリストだから、悪役は逆に人間とも思えないほどの悪役(サタン)なのだ。この作品は全とあくがはっきり二つに分かれており、それこそがこの作品の新の意味なのだとおもう。

 それにしてもキャスティングが見事。ジョン役の俳優さんは実にすごい。まぎれもない名作なので必見だ。


9/16 信仰

 友人からの誘いで、座禅に参加することになった。一度やってみたいと思っていたので、参加することにしたのだ。いわゆる観光のついでのような気分で、早朝から電車に乗って寺に行った。寺は友人が見つけておいてくれた寺で、曹洞宗の寺だった。小さなお堂でわれわれをふくめて10人ちょっとの数で45分間壁に向かって座禅をした。生まれて初めての体験だったが、意外と短く感じた。おそらく寝ていたのだと思う。とほほ。

 座禅の後、お茶をいただいて、この座禅会を主催している方から座禅についていろいろなお話を聞いた。お坊さんはいそがしいので、信徒の方々が自主運営という形でこの座禅会をやっているようだ。主催者の方はまじめそうな老人で、いかにも長年仏道に深く帰依していると言う感じの人で、「座禅は形ではなく、精神なんです。」というお話を聞いた。

 わたしはなんだか「ちょっとやってみたいな。」というだけの気分で参加したことを深く反省した。なにか熱心に仏道のお勉強をして、深い精神世界を追及している方々のところに、興味半分で座禅会に参加したことがひどく失礼なことに思えてきた。「わざわざ座禅会に参加しなくても、家でも出来るので、毎日ちょっと空いた時間に壁に向かってやるといいですよ。」と言われた。たしかに座禅は別に集まってする必要のあることではなくて、自分ひとりでも出来る。確かにそうだなとおもった。なんだか自分が座禅の形ばかりに興味を持ち、座禅そのものや精神世界には実は全く興味が無かったのだと気づかされた。


9/11 資本論

 カール・マルクスの著作「資本論」は名前が有名なわりに、読んだことのある人が殆どいない作品である。理由は簡単。難解かつ、長いからだ。名前を聞いただけで、読みたいという気分になるとは思えない。最近、本屋に並んでいる本は、いかにも人の気を引きそうなタイトルがついているが、その逆を言っている感じだ。

 実は大学時代にこの本を手に取ったことがある。大学の授業というのは大抵空き時間というのがあって、授業と授業の間にヒマな時間が出来てしまう。その間の時間図書館で過ごすのだが、その時に、ちょっと手にとったのだ。ちなみに、その後二度と手にとらなかったのは言うまでもない。1時間ぐらいで数十ページしか進まなかった気がする。

 内容はあまり覚えていない。思ったほど難解なことが書いてあると言う印象は無かったが、面白いことが書いてあるわけでもなかったように記憶している。ただ、一つだけ強烈に印象に残っている部分がある。昔のことなので、正確には記憶していないが、「シャツ一枚とリンゴ二個を交換できるなら、シャツとリンゴ二個の価値は等しい。」というものだ。私は経済学を修めているわけではないので、この記述の真意は良くわからない。が、私が初めて読んだときはこう思った。「そんなのあたりまえじゃん!!」

 が、この一文はなぜか数年前に読んだ本のものなのに、はっきりと印象に残っているのだ。先日思い出して、ちょっと考えてみた。はたして、シャツ一枚とリンゴ二個を交換できるなら、二つの価値は等しいのだろうか。カール・マルクスはおそらく意識的に貨幣を介在する交換にせず、物々交換という形で記述しているから、私もそれに習って、貨幣のことは考えないことにする。(実際には貨幣を使うほうが一般的だが。)

実際のこととして考えると、シャツを持っている人とリンゴを持っている人が出会う。そしてお互いの持ち物を交換することにしたとする。おそらくそこでどちらか交換を持ちかけ、交渉の結果シャツ一枚とリンゴ二個という交換レートが成立した。そして、お互い交換する。その二人はそこで離れて、もしかすると二度と出会わなかったかもしれない。その交換レートはおそらくその二人が話し合って決めた瞬間に成立し、そして、お互いが分かれた瞬間に無くなる。

 リンゴを持った人はもしかすると、次の日には違う人物に出会って、その人物はシャツ一枚とリンゴ一個での交換に応じてくれるかもしれないし、リンゴ三個でないと交換できないといってくるかもしれない。先日と同じようにシャツ一枚とリンゴ二個の交換が出来るかもしれないが、シャツの品質は昨日のシャツより優れているかもしれないし、劣っているかもしれない。おそらく、昨日行った交換と全く同じような交換というのはありえないだろう。実際の商売とはそういうものだ。全く同じ品物というのは存在しないし、昨日のレートが今日も通用することはない。その場その場で見極め価格が決まっていく。それが全く自然な経済の流だ。品物を見る目が無ければ、大損するし、騙されるかもしれない。同じようなものでも、いつも買っている常連さんならおまけするかもしれないし、気に入らないいやな客なら倍の金額をふっかける事だってありなのだ。

 さて、元に戻って考えよう。「シャツ一枚とリンゴ二個を交換できるなら、シャツとリンゴ二個の価値は等しい。」のだろうか?おそらく、交換が成立した段階では等しいと言えるのかもしれないが、それは次の瞬間には消滅してしまうようなあやうい価値だ。シャツが出来た瞬間にはおそらくシャツには経済的な価値は無い。(シャツに対する個人的な思い入れや、自分の満足とかは横に置いておいて。)交換が成立した段階で、価値が生じ、そして、交換された後はまた価値が消滅する。明日シャツを別の人に売るとき、もっと高く売れるかもしれないし、中古品として安くしか売れないかもしれないのだ。

 ただ、上のような価値判断はきわめて経済的だが、実際はみんな交換時のレートのことばかり考えて経済活動をやっているわけではないので、名物だと聞けば、たとえ割高でも買ってしまったりとか、海の家のラーメンがまずいと十分知っていても、おもわず買ってしまったりするわけで、人間の実際の行動と、理論は全く別物だ。購入したものを決して使用せずに次々と転売すると考えれば上の話もそれなりに正しいが、実際は自分が必要としているから買うということが多いのだ。おそらく2個のリンゴなんて、すぐにお腹の中に消えてしまう可能性が高い。経済のことだけ考えると、食べてしまうことは損失だが、実際にはお腹がいっぱいになって、購入者としては大変満足かもしれない。

 そういうことを考えながら、ふと思ったのだ。マルクスがどういう意味で「シャツ一枚とリンゴ二個を交換できるなら、シャツとリンゴ二個の価値は等しい。」と言ったのかわからない。ただ、これは普遍的なことではないのは確かだ。もし、本当の商売人なら、おそらく「シャツ一枚とリンゴ二個を交換できるなら、シャツとリンゴ二個の価値は等しい。」なんて考えないだろう。買い占めて値を吊り上げることや、物が不足しているところにもっていけば、高く売れる事だって知っているだろう。それらを実際肌身で知っていれば、そういうセリフが口から出るとは思えない。物の値段は水物だ。

 そういうことを考えながらふと思ったことがある。「定価」という概念のことだ。ふつうに経済活動をすれば「定価」というものは存在しないはずである。実際に販売しているものを見ても、定価で物を買うというのはめったに無いはずだ。現在日本で定価で買うのは本とか切手とか、それらですら、古本屋に行ったり、金券ショップにいったりすれば多少安価に買える。電話代だっていまは割引の時代。郵便局のゆうパックだって10個出せば一割引になる。もちろん、逆に高くなることだってある。飛行機代やホテル代は土日やお盆正月などの繁盛する時期はサービスは平日とおそらく変わらないだろうに高額の料金を払わなければならない。とはいえ、割引ですらその割引方法ははっきりと目に見える形で設定されているから、現在の電話料金の割引などははむしろ、「条件付き定価」と呼んでもいいのかもしれないが。

 実際はほとんど存在しないのに、「定価」という概念が存在するのだ。おそらく「定価」というものを生み出したのは近代の産業革命の結果だろう。工場で大量に「おなじもの」を作ることが出来るようになった。ということが定価を生み出した。そうでなければ定価など存在するはずが無いのだ。むかしはシャツを作るにも仕立て屋が一人一人の体のサイズを測り、デザインや色を決め、そして一つ一つ作った。その行為に定価はありえない。いまや色は「作りやすい色」「売れそうな色」で、一般的な体型に合わせて大量に洋服を作り、大量に売る。

 物の価値は一体何が決めるのだろう。ふと、そう思った。シャツとリンゴの価値は決して比較できないはずだが、経済という考え型を導入すえば、等価交換が成立するかどうかで比較できる。しかし、その交換レートでさえ、ふわふわとした実体の無いものである。だが、もしかするとマルクスはそれがもっと固定化した普遍的なものと思っていたのかもしれないと思う。なんとなく。


9/6 書くということ

 なぜそうなのかはわからないが、義務教育においては、作文が非常に重視される。遠足に行ったり、運動会があったり、学芸会があったり、何かあるごとに感想文を書かされ、夏休みごとの読書感想文、毎年のように文集をつくり、とにかくなんでもかんでも書かされるのだ。

 わたしはこの「書かされる」ということが大嫌いだった。「書かされる」文章には大抵理想的なフォーマットというのがあり、書くべき内容が決まっている。「がんばりました。」「おどろきました。」「うれしかったです。」などに代表されることを書くべきなのだ。この行為は私にとって非常に苦痛だった。なぜなら、一つの事務作業だったし、起承転結なども考えないといけないし、第一自分の思ったことを書いて他人に見せるなどという行為自体が大嫌いなのだ。自分の思ったことをなぜに他人に発表せねばならないのだ。 先生は言う「好きなことを書けばいい。」と。しかし「好きなこと」ほど難しいものは無い。

 しかし、いま、私は頼まれもしないのにホームページに自分の文章を載せている。なぜ、私は書くのだろうか。ここに私が何を書いたところで得るものは特に無い。誰にも頼まれたわけでもない。でも、書いている。なぜなのか、それは「書かされていない」からだ。小学生だった私は実は「運動会」や「遠足」や、「学芸会」について書きたいなんてちっとも思っていなかったのだ。書きたかったのはもっと心の奥底にあるような感動や思いだ。自分の思いを書きたいように書く。そうでなければ、作文の意味はそれほど無い。単なる事務作業なのだ。(もちろん、事務作業的作文も社会に出てからは必要不可欠なのは確かなのだが。)

 たまに本屋で文章の書き方のような本を見つける。そこには読み手からみて読みやすい文章を書けとかいてある。起承転結の書き方などもある。なるほど、たしかに読み手に配慮したスマートな文章を書くためにはもちろん、それなりにテクニックというのがある。実際に私が読者として文章を読めば、読みやすいなと思う文章もあれば、読みにくいなと思う文章もあるわけで、読みやすい文章を書くテクニックというのは有効だ。でも、なんとなく、私はそのテクニックを身に付けたいとは思わないのはなぜだろう。それはやはりどこかで「書かされる」ということにつながっているのだと思う。心の中からあふれ出る思いには起承転結は無い。秩序も無い。心の中から混沌とした秩序の無い思いがあふれてくる。そして、一つの思いがあふれるとそれにつながって、次々と新しい思いが出てくる。それらが数珠つなぎになっている。それらを一度きちんと整理して、秩序を設け、読みやすい起承転結の文章をあらわすのがおそらく、正しい「作文」なのだろう。でも、わたしは混沌とした思いを羅列するのが精一杯だ。激しい思いを整理したとたん、なぜか、その秩序付けられたものが空しく、味気の無いものに見えてしまう。味気の無い整理された文章をみると、こんなものなんで書いたのだろうとなんとなく後悔してしまう。

 わたしはここに書く文章には秩序はいらないと思っている。もちろん、読んでもらうために書いてある文章ではあるが、でも、読んでもらわなくても別にかまわない文章でもある。傲慢な表現かもしれないが、本当にそう思っている。だからこそ書くことが出来るのかもしれない。そして、ネットのもっている匿名性もわたしが書くということを後押してくれているとおもう。もちろん、私自身を知っており、私がこのサイトを運営している事を知っている人も読んでいるだろう。が、でも、これを読んでいる圧倒的多数の人は私自身を知らない。日本の何処かにいる、1人の人間に過ぎない。だからこそ、その立場だからこそ、ここに文章を書けるのだと思う。

 もちろん、私はここで全てをさらけ出しているわけではないが、でも、なにか自分の思いを引き出し、納得するには一つの通過儀礼が必要だ。それが、このページなのだろ思う。自分自身を見つめなおしたいと思っている。その見つめなおす作業の一つが「書く」ということであり、このコラムを書いているのだと思う。


8/27 高貴な庶民派

 日本人はみな中流意識をもっていると言われている。実際バブル期はみんなそこそこお金を持っていたし、将来に対して楽観的だったし、稼いだお金で海外で豪遊することも、財テクにはしることも出来た。あのバブルがずっと続いていたなら、たしかに日本総中流国家になっていたかもしれない。が、結局バブルは一時期の夢に過ぎない、現在では多くのサラリーマンがリストラに怯え、商店主は借金取りに追われ、学生には就職口が無く、公園は市民の憩いの場ではなく、一部の方々のお住まいになっている。こうなってみると、世の中みんな中流なんてありえない。世間には厳然と社会階層というものがあるのだなとおもってしまう。まあ、日本の場合階級というより階層といったほうが適切であろうが、世界にはまだまだはっきりとした階級が存在する国もあることを考えれば、日本もまだまだ国内の経済格差は小さいほうなのだろう。

 昔は社会の中に完全なる階級というものが存在した。もちろん、階級を飛び越えることが全く出来ないわけではなかっただろうが、多くの人にとって階級を越えることは不可能だったし、おそらく階級を越えるということ自体がなんとなくタブーであった。それを壊したのがおそらくフランス革命で、フランス革命は階級を破壊することに挑戦した。(もっとも、階級は破壊したが、逆に男女差別などを生み出したともいえるのだが。)フランス革命の余波は世界に広がり、いまでは世界中で、民主主義の思想がひろがっている。多くの国では一般市民によって選ばれた議員や大統領によって政治が行われているのだ。

 そういう民主主義の社会においては、政治権力を握るためには市民の支持が不可欠である。多くの市民の支持を得るためにはどうすればいいのか、どうすれば大統領になれるのか、それには二つの側面が必要だ。一つは高貴さ。そして庶民性である。この二つはまったく逆の方向を指し示している。が、実際に選挙を見ていると、あきらかに候補者には「高貴さ」と「庶民性」がもとめられているのだ。はっきりいおう。日本でいうと田中真紀子さんがいい例だ。彼女は大物政治家を父に持ち、もちろん本人は裕福な家庭に育ったお嬢様。夫は国会議員。絵に描いたようなお嬢様であり、新潟ではもちろんお姫様扱いであろう。しかし、彼女が選挙にでてきたとき、彼女は自分が「主婦である。」ことをアピールした。その理由は一つ。お嬢様ぶった行動をとれば支持を得られないからだ。一般民衆の広い支持を集めるには「庶民派」を演じなければならないのだ。実際はそうでなくても。

 では選挙に投票する市民は本当に庶民な人物に投票するのかというと、おそらく本当に庶民な人にはなかなか投票しないだろう。もちろん、実際には庶民な政治かもいるにはいる。(例を挙げれば辻本清美さんあたりは完全に庶民だ。お嬢様には程遠い)だが、実際には二世議員や官僚、弁護士、医者。社長などの比較的社会的評価の高い肩書きを持つ人が当選することが多い。「庶民派」は「庶民」ではないのだ。一般市民は「庶民的な人物」に好感を持ちながらも、「本当の庶民」には投票しない。実際の政治を行う人は「庶民の心がわかるエリート」であるべきだと思っているのだ。

 高い教育を受け、知識のある人物が政治を行うべきであるという考えはたしかに一理ある。そういう意味ではエリートが政治を行うというのも一つの方法だ。いわゆるプラトン的な考えというのだろうか。だが、もし、非常に有能なエリートがいたとしても、その人が庶民派をアピールすることなく、いかにもエリート風にj振舞ったとしたら、おそらく選挙で当選しないだろう。投票者は有能な人物に政治をたくしたいと思いながらも、自分に近しい雰囲気を持った人を支持したいとおもっているのだ。この矛盾した投票者の考えが、なんとも不可解なねじれを生み出す。有権者にとっては自分より有能なかつ、自分のような雰囲気を持った人が望ましい。そのような人物を演じるのが候補者の努めだ。

 いままで議員について述べてきたが、「高貴な庶民派」を演じることを求められているのが王族の方々である。世界各国の王家は庶民とは違った高貴さをもつことを要求されているが、同時に庶民の生活を十分理解して、常に配慮することが求められている。本当に庶民的な振る舞いをすると庶民たちから眉をひそめられるのに、ちょっとだけ庶民的な振る舞いをすると好感をもたれるのだ。なかなか一般市民の気持ちは難しい。

 結局このねじれの理由は何かというと、「高貴さへのあこがれ」だろう。一般市民はいつもなにか「高貴さ」「特別」にあこがれている。じぶんも「特別」になりたいと思っている。そして、「特別」な人はすごいなと思う。だから、「特別な何か」を持った人を支持する。だけれど、その「特別」な人が自分とあまりにもかけ離れた人物であればあこがれる気分にもなれない。まったく遠い存在と感じられてあこがれるのもばかばかしくなるのだ。でも、「ああ、あんなすごい人だけど、でも私とそれほど変わらないんじゃない?」と思ったとたん、なんかうれしくなってしまう。

 「民主主義」こそ、平等こそ理想的な社会のあり方だと一般的にはいわれていても、でも「王子様」「お姫様」にはやっぱりあこがれる。「特別」になりたい。「平等」なんてつまんないって、こころのどこかで思っているのだ。人間の心は複雑だ。


8/25 ホントノトコロ

 わたしがシェイクスピアの戯曲の中で一番すきなのが「ヴェニスの商人」だ。小学生のとき子供向けの本を読んで、ものすごいどんでん返しに感動したのを覚えている。ヴェネツィア史を専攻していた友人に言わせると、「ヴェニスの商人」ではアントニオーが全財産を船に乗せてしまい、シャイロックから借りた借金を返せなくなるわけだが、実際のヴェネツィア商人というのは貿易に投資するときは必ず分散して投資するのが当然で、全財産を船に積み込むことなどしなかったらしい。古代ギリシアの時代だって、海上貿易の投資のときは分散して投資するのが当然だから、まあ、そうだろうなと思う。やはり「ヴェニスの商人」はフィクションなのだ。でも、アントニオーが全財産を船に乗せないとあの話は成立しないんだよね。

さて、別の話だが映画で「生きるべきか死ぬべきか」という作品がある。ちょうど第二次世界大戦中に作られた作品だから白黒の映画だ。内容はすばらしいので、機会のある人はぜひ見てほしい。ストーリーは第二次世界大戦中のポーランドが舞台。ポーランドの劇場でシェイクスピアのハムレットを上演しているのだが、そこに突然ナチスの攻撃が始まる。ヒトラーがポーランドに侵攻してきたのだ。劇団のみんなは力を合わせてナチス軍に変装して、ナチスを騙して、ポーランドからナチスを追い出すというコメディー作品だ。劇団員が演技力を生かして、ナチスを騙すのだ。

この話の最初のところに面白いシーンがある。劇団の脇役(衛兵役)をやっている人が、「こんな脇役じゃなくて、もっといい役をやりたい。」ということを話すシーンがある。それを聞いた相棒が、「じゃあ、おまえはユダヤ人だから、シャイロックをやればいいじゃないか?」と言う。「おまえなら、すばらしいシャイロックが演じられるだろう。」と言うのだ。それを聞いた脇役はシャイロック役をやる気満々のようなせりふを言う。

たいしたシーンではないのだが、今の私たちから見れば、「おいおい、ナチスがきているんだよ。ユダヤ人なんてしゃべったら、収容所に入れられてしまうよ。」と思ってしまう。でも、この映画は第二次世界大戦中のイギリスで作られた作品。ナチスのポーランド侵攻にあわせて作っている映画なのだけど、その当時はナチスがユダヤ人を収容所に入れて虐殺しているなんて、イギリス人は知らなかったんで、こんなのんきな映画が出来てしまうのだ。当時のイギリス人にとってナチスはたしかに敵だったのだけど、まさかナチスがそこまでひどいことをやっているとはぜんぜん思わなかったので、こういうのんきコメディー映画が作れるのだ。何事も知らないほうがいいってこともあるんだと思う。


8/21 ヨーグルト食べ比べ3

あの雪印の製品なのがガゼリ菌SPだ。雪印の製品だけになかなか売っている店が少ない。まだ発売されて間もないからかもしれない。非常にあっさりとした味わいで、殆ど甘さが無くさっぱりしていてよい。やわらかさも、とろとろ過ぎず、かといって硬めではなくちょうどいいぐらいだ。さっぱりとした味を好む私としてはなかなか評価できる製品だと思う。

ヤクルトのソフールはあえて説明するほどのこともないほどの昔からある定番商品。甘めの味でデザートという感じが強い。おいしい。

バニラヨーグルトはその名の通りバニラ味。食後のヨーグルトというよりもおやつにふさわしいと思う。ヨーグルトの自然な味わいを好む人には向かないかもしれない。ヨーグルトの味はほとんどなく、バニラ味だ。


8/20 ヨーグルト食べ比べ2

ヨーグルトの食べ比べの続編だ。以下の3種を食べてみた。

BIOはとろとろタイプのヨーグルトで味はおいしい。わたしは固めが好きなので、やはりLC1のほうがよいと思う。

北海道生クリームヨーグルトはその名の通り生クリームが入っており、生クリームの風味がある分、デザートに近い仕上がり。おいしい。

ビール酵母は面白そうだと思って購入したが、こんなにまずいとは思わなかった。まさにビールの苦味がある。私には絶えられなかった。完食できず、二口食べるのがやっと。これほど口に合わないヨーグルトも珍しい。


8/13 ヨーグルト食べ比べ

お昼の人気番組「おもいっきりテレビ」で紹介される食材はその日の夕方たくさん売れるというのはもはや主婦の間では常識だ。わたしはそういう単純な消費者の行動を軽蔑していた。が、やってしまった。わたしも。

先日、「あるある大辞典」を見ていた。普段は全く見ないのにその日はヨーグルトの特集。思わず見てしまったのだ。いま、流行のプロバイオティクスの特集だったのだが、なるほど、ヨーグルトは免疫機能の改善に効果が高いらしい。いっちょたべてみるか!!と思ったのだ。

早速コンビニへ。ヨーグルトが並んでいる。わたしはスーパーで売っている三個パックで100円の「牧場の朝」がすきなのだが、今夏はコンビニで売っている一つ100円以上もするヨーグルトを3種類購入してきた。(わたしにしては贅沢な。)購入したのは以下の3種類である。

味比べなので、一度に3っつたべたのだが、これがかなり限界だ。これ以上食べるとおそらく大変なことになるだろう。今回選んだのはすべてフルーツなどの混ぜ物なしのプレーンタイプだ。

まず最初に食べたのはネスレから出てくるLC1というヨーグルトだ。このヨーグルトのパッケージが一番ダサい。ダサいがおいしい。きわめて自然な味で甘味は殆どない。が、すっぱくて食べられないと言うわけでもなく、比較的固めのヨーグルトだ。ネスレというと乳製品と言うよりコーヒーメーカだとおもっていたが、こういう食品も意外とおいしい。おすすめだ。

次に食べたのが、森永からでているラクトフェリンだ。パッケージがさわやか。中身はどろどろタイプのヨーグルト。スプーンですくったときに形が出来ないぐらいやわらかい。さっぱり味のLC1の後に食べると甘い感じがする。

最後に食べたのが最近何処でも見かける明治のLG21だ。これも固めのヨーグルト。LC1より甘めだが、硬さはLC1と同じぐらいだとおもう。食べやすい普通タイプのヨーグルトだと思う。

で、食べた結果一番好きだと思うのはLC1だ。甘くないのがよい。おすすめする。

 


8/12 差別って何だ

わたしは差別問題に結構関心があるほうで、いろいろと本を読んだりする。差別と言うと、男女差別、人種差別、職業差別、年齢差別、外国人差別、同和問題などいろいろあるわけだけど、今の現代差別はいけないということが浸透しているため、深刻な差別が日常的に見られるということは殆どない。一応差別はいけないという世間の合意がブレーキとなっているからだ。もちろん、世間の目に触れないところではたくさんあるのが実情なんだけど。

差別について非常に関心をもつようになったのは大学時代だ。大学時代にちょっと興味を持ってフィールドワークの授業をとった。授業の案内には川沿いを歩きながらフィールドワークをするという社会学の授業という触れ込みだった。いま思い返すとどう考えても同和問題の授業だったんだけど、とにかくそれがきっかけだったのだ。

同和問題については知っている人と知らない人の差が激しいと思う。同和問題は地域によって深刻さが大きく異なるため、東日本の人は西日本の人に比べてピンとこないという人が多いようだ。西日本の中でも近畿地方が一番同和問題が深刻であり、私は大学時代を京都で過ごしたが、京都の同和問題というのはおそらく全国でもトップクラスの深刻さだろう。そういう意味で京都で同和問題の勉強をするのは非常に良かったと言えるのかもしれない。

実際、近畿地方での同和問題はかなり深刻らしく、たとえば結婚するという段階になって、結婚相手が同和地区出身者であることがわかって、家族で大問題になり駆け落ちする羽目になったとか、そういうことは今だにザラらしく、そういうことを悪いとも思わず平気で口に出すような人も多いようだ。こういうのはそういう話や実態を目の前にしないとなかなか理解できない問題かもしれない。

 で、私はその授業で京都にある「同和地区」に実際にいって、現地の人と話をした。もちろん話してくれる人というのはそういう差別問題に取り組んでいる人で、いわゆる普通の人というより、差別と戦っている意識の高い人だ。

実際に地区を歩いてみると、はっきりわかることがある。ここは他のところとぜんぜん違うということだ。もちろん道は普通なので知らない人が何も意識しなければそこが同和地区であるということは全く気づかないだろう。だが、その近辺一帯だけ、全く会社のビルのようなものやスーパー、コンビニ、銀行などが一切ない。公園や小学校、小さな飲食店、雑貨店などは一応点在している。自治体などが同和対策にあたらしいアパートなどを建てたり、公園を整備しているので、一見すると普通の町並みだが、どう考えても便利な感じはしない。コンビニなんていまどき500m間隔であるのが当然ぐらいになっているのに、この地区ではコンビニがないのだ。(じつはコンビ二でコピーをしようとして、捜したのだが、ぜんぜん見つからず数キロ先までみんなで歩く羽目になったのだ。)

 小学校や公園などはきちんと整備されているし、自治体が提供してる綺麗なマンション風の建物モあるのだが、古くから住んでいる老人たちのいえは今にも壊れそうなほどの古い建物だ。もちろん、同和地区じゃなくても、そういう建物に住んでいる老人はいるので別に同和地区だから特別と言うことではないだろうが、その地区で活動していて、その時お話を聞かせてくれた男性によると、この地区の老人たちは社会に対する意識が低く、ごみなどを平気で道や川に投げ捨てる人が多いそうだ。注意してもぜんぜん聞かないため、町がいつもごみだらけ。小さい頃からそういう生活に慣れきってしまっているためいまさら改善しようもないらしい。同和地区出身者でも若い人は当然だがその地区に住みつづけることがマイナスになるため、どんどん出て行く、でもって、意識の低い、他の地区にいまさら移動できない老人たちが残っているわけだ。同和地区出身者でも改善のために運動しているような意識の高い人たちが結局そのごみの始末をして回っているわけなのだ。同和地区の人すべてが一致団結して差別と戦っているわけでもない。同和地区出身者でも社会的に成功しようと努力する人はどんどん地元から離れていく。結局残るのは才能を活かせないまま年をとってどうしようもなくなってしまった人たちなのだ。結局そのことが同和地区出身者に対する世間のマイナス評価となり、結果として差別の状況が良くならない。まるでデフレスパイラルのように八方塞なのだ。政府や自治体、人権活動家たちが必死になれば解決するような簡単な問題ではないようだ。

 また、別の同和地区にも行って、ある中年の女性から話を聞いた。その人は率直に自分の人生を語ってくれた。彼女は今は離婚して独身だったが、元の夫はやくざ屋さんだったようだ。いちおう子分も数人いて、子分たちから「姉さん」と呼ばれたこともあったらしい。彼女はまともに義務教育を受けておらず、全く字が書けなかった。この地区ではそれほど珍しくないことらしい。だからまともな職業には就けなかったようだ。それが夫と別れて(死別か離別かは忘れた。)1人で子どもを育てないといけない状況になって、何とか職を捜したところ、給食センターの調理師の仕事が見つかった。自治体が同和地区出身者を優先的に採用するということだったらしい。ところが字が書けない。字がかけないと採用試験に応募できないのだ。彼女は生きていくために初めて必死になって勉強をしてテストをパスして、何とか給食センターで働くことが出来た。そうして娘を一人で育てたという。その娘さんをがんばって短大までやって、今は娘さんは結婚しているらしい。

 彼女は「同和地区に生まれたということはただ、そういう風に生まれたというだけではないといっていた。同和地区という環境に育ったと言うこと自体が、同和地区出身者に普通とは違う足かせをはめることになるのだと。彼女の娘はもともと短大で幼稚園の先生の資格をとりたいといっていたのだが、実際に短大にいってみると幼稚園の先生になるにはピアノが弾けなければならないとわかった。ところがいまさらピアノの練習が出来ない。そんなことをやるような環境ではなかったのだ。結局幼稚園の先生については断念せざるを得なかったようだ。つまり、同和地区ではそもそもピアノを習うという環境にないのだ。普通の一般家庭なら当然な情操教育とか、お稽古ごととかそういうこと自体をする、させるという雰囲気にないことが、人生にとって大きなマイナスになるのだと言っていた。

 些細なことかもしれないが、おそらく実際に差別問題というのはそういうことなんだろうなと感じた。差別される人は当然社会に対して背を向ける。背を向ける結果、やくざ屋さんになる人も多いし、生活が荒れる人も多い。そういう状況を目の当たりにした一般の人は、「やっぱり同和地区出身者は駄目だ。」というマイナスイメージを抱く、それがまた差別を産み、差別がまた同和地区出身者を苦しめる。同和地区出身者のなかでも差別される状況から抜け出そうとする人たちは早々と地区を去り、それを隠して生きていくし、同和地区にとどまって差別と戦おうとする意識の高い人は、意識の低い人たちに振りまわされながら、必死になるしかない。なかなか簡単には問題は解消しそうもないというのが現状のようだ。

 昔は同和地区の手前まで道路がきちんと舗装してあるのに、地区に入ったとたん舗装がなくて、地面が剥き出しになっていたというぐらい行政の対応が悪かったようだが、いまは行政のサービスも非常にいいらしい。公園などの整備を見ても立派だ。でも、コンビニとか銀行とかはいまだに全くない。これが現実だ。また、行政が同和地区出身者向けに立派なマンション風の住宅を建てて、そこを格安で借りられるようにしたりしているが、逆にそれが同和地区出身者でないひとたちから「同和地区ばかり優遇している。」という僻みにもつながり、逆に問題になったりもしているようだ。世間は難しい。

 まあ、他にもいろんなのを見たんだけれど、まあ、それについては長くなるので次の機会に。でも、一つわかったのは差別って簡単にはなくならないなという事だ。差別するほうが悪くて、差別されるほうがかわいそうなんだけど、でも、そう単純でもない。差別される側も、差別と戦おうとする人と、差別に負けて世間に背を向けて生きる人といるし、そして、圧倒的多数は差別を知っていても、何もしようとしないし、係わり合いになりたくないと思っている。そのうえ、実際にかかわっても簡単には解決しないのだ。


8/6 アルテミスという女神様

このミニコラムではあまりギリシアネタを書いたりしないのだけれど、たまに気分で書く。このコーナーはほんと気分で運営している。

さて、ギリシア神話についてだが、これについては当サイトの常連の皆さんは私よりもはるかに熱心に勉強している人が多いので、私なんぞがうっかりいいかげんなことをここに書こうものならメールで間違いを指摘されるに違いないとおもってしまう。びくびく。

ギリシア神話の神様についての本はおそらく日本だけでも1000以上は出版されているのではないかと思ってしまうほど、ギリシア神話の専門家による本から、ちょっとした文化人の書いた軽い本まであるわけだけど、まあ、書いてあることはどれも似たり寄ったりだ。

その中でも特に最近気にになっているのが「アルテミス」という女神様だ。ギリシア神話に造詣の深い当サイトの常連の皆さんなら、ギリシア神話の神様が持っている属性がきわめて難しいと言うことを知っているだろう。たとえば一般的なギリシア神話の本を開いてみればポセイドンは海の神様と書いてあるのだが、同時にポセイドンは馬の神様という属性を持っていて、おそらく馬の神様という属性のほうが古い。アポロンという神様も「太陽の神」と書いてあるギリシア神話の本が多いが、むしろ「芸術一般」の神という属性のほうが本当の彼の属性であるということも、ギリシア神話ファンなら常識だろう。

で、アルテミスという女神様の属性は「狩猟の女神」である。大抵肖像画などにしても弓を持ち、動物を連れているずいぶんわかりやすい女神様だ。彼女の狩猟・動物との深いかかわりは常識的だが、彼女にはもう一つの大きな属性がある「子どもの保護者」だ。アルテミスの神話は大抵動物とのかかわりを示すものが多い。それに比べれば「子ども」とのかかわりを示す神話は少ないかもしれない。しかし、古代ギリシアにおいてアルテミスは明らかに子どもの保護者としての信仰を集めており、アルテミス神殿もその役割を果たしていた。我々日本人が子どもの成長を願ってお宮参りに行くように、古代ギリシア人はアルテミスに子どもの成長を祈願したのだ。しかし、それについて少し気になっていたのだ。なぜ、アルテミスは「子どもの保護者なのだろうか。という疑問である。

たとえば、ギリシア神話で「母」というキーワードと強く結びつくと言えば「デーメーテール」という女神様である。彼女の神話を読めば彼女がいかに強く母親としての側面をもっているのかよくわかる。しかし、彼女はあれほど強い母親としての神話を持っているのにもかかわらず、子どもの保護者としての宗教的役割はアルテミスがもっており、むしろエレウシスの信仰などを見ていても「死と再生」「農作物の豊穣」が彼女の宗教的な役割なのだ。あんなにお母さんらしいのに「子どもたちの保護者ではない。彼女以外にもギリシア神話には「母親である女神」様たちはたくさんいるし、ずいぶん子沢山だなあとおもう女神様もいっぱいいるのに「独身」「子どもなし」のアルテミスが、実際には「子どもの保護者」なのだ。

はじめはこれになんとなくの違和感を抱いていた。全く子どもを産まないアルテミスがなぜ「子どもの保護者」なのだろう。しかし、最近その理由がはっきりとわかってきた気がするのだ。

多くの場合「子どもの保護者」=「母親」という図式は成り立つ。が、成り立たない場合もありえるわけだ。つまり子どもを保護する人間は必ずしも親でなくてはならないという理由はない。実際に「親はなくとも子は育つ」という言葉もあるぐらいだし、実の親ではなく親戚や養父母に育てられた人も多いだろう。だからアルテミスが母親じゃなくてもかまわないのだが、一般的な設定ではない。

しかし、ここ最近は彼女が「子どもの保護者」であるならば決して母親であってはならないのだということがなんとなくわかってきた。実は「親」=「保護者」というのは実際の社会においては一般的だが「理想的ではない」からだ。

「親」というのは自分が産んだということだけで我が子を無条件に愛する。すばらしいことだが、諸刃の剣だ。仏教の鬼子母神神話を読んでもわかるが「我が子のためなら何でもやる。」「我が子はかわいいがその他の子どもはどうでもいい。」「我が子を手放したくない。」などの思いを抱きがちだ。愛が深いだけにその副作用もきわめて強いのだ。デーメーテールが娘の行方不明事件で世間に散々迷惑をかけた神話は有名だが、親とはああいうものである。我が子が第一なのだ。

親というのは我が子に愛がある分、「保護者としては不適格」であるという側面がある。甘やかしたり、期待したり、もちろん親も子どものためと思っているのだろうけれど、結局我が子を駄目にしてしまう原因にもなりやすい。子どもが一人前に立派になるにはかなり邪魔な存在でもある。子どもが一人前の大人になってもあれこれと世話を焼く。子どもが成人したかどうかと「親子の関係」はまったく違う次元の問題だから、幼かった我が子がいくら立派になろうとも親から見れば「かわいい我が子」なのだ。

しかし、本当に理想的な保護者というのは子どもがまだ未熟で保護を必要としているときだけに適度な保護を与え、立派にやっていけるようになれば喜んで手放す人物だ。それは実の親であるよりむしろ「他人の保護者」のほうがきちんとその役目を果たすことができる。アルテミスはまさにそのような理想的な保護者だ。彼女自身も処女であるし、彼女の保護対象は「未成年者」だ。大熊座神話でも彼女がゼウスとの子を妊娠したとたん、アルテミスは彼女を捨てる。一般的なギリシア神話の本をひらくと「アルテミスは残酷で厳しい女神様」と書いてあるが、そうではない。彼女が大人になったから、彼女が今までの少女時代を卒業し、一人前の親となるべき段階に入ったからだ。そうなるとアルテミスは自然界の動物の親が独り立ちの出来る我が子に噛み付くように、彼女は今までかわいがっていた人物を拒否する。それはまさに「理想的な育ての親像」だ。

デーメーテールはたしかに娘を誰よりもかわいがっているが、じゃあ、他人の子どもをかわいがってくれるかどうかというと、たしかに彼女は他人の子どもの世話をしたという神話もあるのだけれど、どちらかというとあてにならない気もする。我が子と他人の子どもが一緒に溺れていれば、まっさきに我が子に手を差し出すだろうと予測される。むしろ、アルテミスは実の我が子がいない分、誰にでも公平に正しい保護を与えてくれる神様として適切なのだろう。

アルテミスの処女性は「母」という属性の否定ではないかと思う。女の重要な社会的役割として「出産」はつねに期待されている。が、彼女は女にもかかわらずその役割を拒否する。本来なら糾弾されてもしかたないはずなのに、むしろ産まない女が存在するということはおそらく、全ての女が「産まない女」になってはこまってしまうのだが、社会重要な存在の一部として古くから認識されていたのではないかなと思う。


6/7 DVDを買った

先日、DVDを買った。半年以上前から買おうか買うまいか悩んでいたが、なんとなく買ってしまった。DVDを買うにあたってはかなり悩んだ。DVDというのはたいていはテレビに接続して使うわけだが、このタイプだとディスカウントストアでも15000円はする。プレステ2などを購入すればゲームも出来るが25000円もする。持っているパソコンにつければ、内部に付けることが出来るので10000円以下で買える。というわけで、悩んだ末に一番安い方法を選択した。パソコン内部に取り付けたのだ。

ショップに行って一番安いのだとバルク品(いわゆる正規品じゃないやつ)で6500円。だが、DVDソフトがバンドルされていない。DVDの再生ソフトを私が持っていなかったので、OME版のDVD再生ソフトのついているものを8500円で購入することになった。パイオニアのバルク品だ。

いま私の使っているパソコンは去年の1月に購入したものだが、拡張性を重視したものを買ったので、内部になにかと隙間があって増設しやすい。少々お高くついたが、今となってはいい選択だったと思う。(箱が大きいので場所を取るが・・・。)CD-R/RWの下のベイに取り付ける。

これでも別のパソコンのハードディスクの交換をやったことがあるので、IDE接続には自信があった。パソコンを開けてケーブルを取り付けて・・・。ところがパソコンの立ち上がりが悪い上に、アプリケーションエラーとなってしまう。接続が悪いのかと思って何度もパソコンを開けなおして接続を確かめるが何が悪いのかわからない。パソコンをあけたり閉めたりしながら、いろいろと確認してみると、なんとパソコン自体がDVDはもちろんもともとついていたCD-R/RWも認識しなくなっていたのだ。明らかに接続ミスだ。電源届いているようなので(トレイは動く)、ケーブルのほうの接続が悪いのかと思った。

もう一度パソコンを開けて接続をきっちり確認。それでも直らない。うーん。どうしたものか。

もし、DVDだけが認識せずに、CD-R/RWのほうは認識するのだったら、もしかするとDVD自体の問題かもしれないが、どっちも認識しないと言うのは明らかに私のつなぎ方のミスなのだ。一体何が悪いのかとおもってパソコンの箱を開けたり閉めたりしながら作業が続く。

そして、ふっと思い当たった。「ジャンパ」だ!!

もうしわけないが基本の基本を忘れていたのだ。あわてて説明書でジャンパを確認。うう。やられました。原因はジャンパをきちんと設定していなかったから。単純ミスでした。

もういちどパソコンをあけてDVDのジャンパを確認。DVDのジャンパは出荷時にはマスターでセットされていたのだ。それをスレーブのケーブルにつなげれば動かないに決まってる。つまり、ケーブルに二つのマスターがつながっている不自然な設定によってパソコンがDVDとCD-R/RWを認識できなくなっていたのだ。DVDのジャンパをスレーブに設定しなおした。そうしてつなげると一発解決。どちらも認識して動きました。よかったよかった。

というわけでDVDをセット完了。DVD再生ソフトもインストール。でも、でも、気づきました。OSがDVDとCD-R/RWを間違って理解していますなあ。(動くのは動く。)

マイコンピューターは通常、Aはフロッピー、Cはハードディスク、DはCD-R/RWになっているから、これにDVDを増設すると当然EはDVDになるわけ。もちろんハードとしてはそうなっているのだけど、私のOSの認識ではDがDVDで、EはCDドライブだと思っている。わかってないので、音楽CDをかけてやると、あわててDがCD-R/RWだときづいたようで、表示が変わった。うーん。おりこう。あいかわらずEドライブがCDドライブだと勘違いして表示している。今日あたりDVDを借りてきて、再生してやれば気づくと思う。

DVDが家に完備されたので、これからは映画もふんだんに見ることができる。ああ、早くレンタル店の会員証をつくらなくては。


 

6/2 秩父散策

今回の私の入院にあわせて、実家の山口にいる母親が上京してきた。入院が終わって、しばらく東京にいるので、たいくつだろうし私もずっと入院していたので気晴らしに出かけることにした。行き先は秩父。幸運にも天気は良かった。

朝早くから電車に乗って秩父へ行った。実は私は一人で秩父に行ったことがある。ヒマだったのでふらりと行ったのだが、そのひたまたま秩父のお祭りの日で、お祭りを堪能して帰ってきたのだ。それ以来の秩父だった。

事前にインターネットで調べてみたのだが、それほど良い情報を得るまでにはいたらなかった。とりあえず、西武秩父駅の観光案内所でパンフレットを何枚かもらってきた。秩父市内には実はそれほどたいした見所はない。(秩父神社ぐらいだろうか?)どうせなら長瀞とかにいったほうが良いだろうと思って、秩父鉄道の一日フリーパスを購入することにした。一日乗り放題で1400円と言う途方もない高いパスなのだ。(秩父鉄道は田舎なので交通費が高いのだが、それにしても高額なパスだと思う。)料金の高さに閉口しながらも、長瀞から三峰口まで移動すれば元は取れると判断した。当然田舎なの列車なので電車は30分に一本しかない。しかし、田舎のたびでは30分まちぐらいは普通のことと考えなければならないだろう。

長瀞行きの電車に乗って長瀞駅で降りる。とりあえず宝登山という山があり、そこにロープウエイと神社があるらしいので、駅から歩いていった。ロープウエイのあるところまで15分ぐらいの距離がある。道は綺麗に舗装されていて歩きやすいが、10時ごろの時間帯だったからだろうか、日曜日の観光地にもかかわらず人がほとんどいない。これでは近くの観光向けのそばやなども商売にはならないだろうとおせっかいな心配をしてしまう。ロープウエイの上り口に行った。ロープウエイは往復で750円程度の料金がかかる。心の中で高いな。とおもいながらも、歩いて上るわけにもいかず(歩いて上るつもりがなかったので、ハイキングできる装備ではなかった。)ロープウエイに乗った。この宝登山はガイドによると頂上に梅林と動物園と神社があるとのことだった。逆から言えばそれ以外は何もないといってもいい。神社も小さくて、とても観光に耐えれるものではなく、動物園には興味がないので行かず、梅林はかなりの数の梅の木があったが、時期ではないので咲いていなかった。つまり見所はほとんどなかったが、それでも頂上からの眺めはなかなかよかった。ベンチに座ってのんびりしたあと、ロープウエイで再び下った。

この宝登山の下には神社がある。ちょうどロープウエイを降りた頃ふもとの宝登神社にいってみるとそれなりに観光客がいた。(10時だと早すぎたので観光客がいなかったのだなと、安心した。)神社はそれなりに規模が大きな感じで、池に鯉や亀もいた。おそらく山頂の奥社が神社としては古く、ふもとの神社のほうが建物としては立派だが、おそらく後代に立てられたものだろう。でも、観光として考えるならふもとの神社だけで十分だなと思った。

その後、昼食にそばを食べ、長瀞駅の南側にある荒川へ行った。この長瀞の最大の観光名所がこの川なのだ。カヌーやリフティング、オートキャンプ、川くだりなどが楽しめる。川の切り立った景観がすばらしい。本来、長瀞を十分楽しむなら大人数でオートキャンプ場などで遊ぶのが最善だろう。ふらりと長瀞にきた観光客二人は、何のアウトドアの用意もないので、一人1550円で楽しめる川くだりを楽しんだ。この日は水量が少なく、のんびりとした川くだりだった。スリルはなかったけれど、おかげでゆっくりと長時間楽しめた。1550円の値段なら十分満足できるないようだったと思う。暑かったので気持ちも良かった。船頭さんの話によるとベストのシーズンはやはり秋だということだ。秋に秩父を旅するならぜひこの川くだりはおすすめしたい。わたしはこのときふらりと行って簡単に船に乗ることが出来たが、人気のシーズンだと予約したほうがいいかもしれない。

船を満喫したあとは長瀞駅から急いで三峰口の駅へ移動した。三峰口はこの秩父鉄道の一番奥にある終点の駅だ。慌てて乗った電車の中は数人の高校生が乗っているだけだった。田舎の単線は向こうからの電車がくるたびに駅で停車しながらのんびりと進む。ふと、線路わきを見ると台座にカメラを据えた伯父さんの姿がちらほらいた。「あ、SLだな」とおもった。この線は土日だけだったと思うが一日一往復だけSLが走る。鉄道ファンの心理はわたしはよくわからないが、あんな土手で電車をずーっと待っているのもすごいなと感心してしまう。

電車が駅で止まった。向かい側から電車が来たのだ。と、おもったらSLだった。こちらの電車に乗っている幾人かの観光客がこの偶然に手の中のカメラのシャッターを切っていた。わたしも母もたまたまのぐっとタイミングに顔がほころんだ。SLに乗るつもりもわざわざ見るつもりもなかったけれど、こうやってタイミングよく見かけることが出来るとなんだかうれしい。

三峰口の駅を降りたすぐにバス停がある。そこから三峰神社に行く。バスはラッキーなことにすぐに来た。三峰神社のある大滝村は秩父地域の中でも一番の奥地で奥秩父とよばれる。本当に田舎なのだ。切り立った谷に川が流れ、その谷に沿ってバスは走る。しばらく上がったところに「大輪」というバス停がある。ここから三峰神社までのロープウエイに乗るのだ。

バス停から降りてすぐに谷の清流が流れる。谷に沿ってしばらく上がるとロープウエイの入り口があるのだ。わたしは前の宝登山のロープウエイぐらいの値段だと思っていたがびっくり、往復1650円と言うのだ。うう。信じられない高額な値段。船くだりだって一人1550円だったものを!!

ここまで来て値段におびえて引き返すわけにも行かない。この三峰には他に見所があるわけではないのだ。しかたなく料金を払う。なんでも徒歩で上ると2時間かかると言うことだ。しかもその山道はもともと山伏の修行の山だというから、気軽に登れるものではなかろうと思われる。実際にロープウエイで上ってみるとこの山が本当に高い山田とわかる。ロープウエイでも8分かかかるのだ。しかも上から見下ろした景色はすばらしい。高かったがきてよかったと思う。標高が高いためかすごく涼しい。

とりあえず三峰神社に行ってみることにする。ロープウエイの駅から15分ぐらいかかる。杉林を抜けてだいぶ歩くと、こんな山奥なのに結婚式場とホテルをかねたものらしい建物や喫茶店などがある。うん。山の上に意外なものがあるのだ。

神社はすばらしかった。京都で大学生時代を過ごした私には東京近辺の神社仏閣は正直物足りないのだが、すばらしく華やかな彫刻。極彩色の神社。建物も大きく、神社の回りには大量の灯篭や碑が建てられ、この神社が各方面からの喜捨を受けていることを示している。謎のヤマトタケル象などもあるし、眺めは最高だ。これは行って損はないとおもう。本当なら朝早くから出かけてゆっくりとハイキングしながら一日過ごすのがよいのだろうなとおもいつつ。ロープウエイで帰ってきた。

三峰口の駅に戻ってから秩父市内のファミレスで夕食をして帰った。帰ったのはかなり遅かったがよい一日だった。

今後秩父に行く方へのアドバイス

奥秩父に行くならハイキングの準備をすべきである。

長瀞に行くならオートキャンプの準備をすべきである。

西武秩父・秩父駅周辺にはお土産や良い飲食店はほとんどないと覚悟すべきである。

長瀞と三峰を往復するならともかく、それ以外なら電車のフリーパスは買わないほうがよい。

宝登山へは梅の季節以外に上ることはおすすめしない。

以上。


4/18 おかめ納豆しそ風味

おかめ納豆しそ風味の後日談。

言われたとおりライフに行ってみるとたしかにあった。でも、私が実家で見たときは3パックで100円だったのが、2パックで128円だった。これを計算してみると。

100÷3=33.33・・・

128÷2=64

およそ2倍の価格と言うことになる。たかい・・・。おかめ納豆しそ風味が関東圏でもメジャーになって価格が下がることを祈る。

しかし、なぜ関東では大規模に売らないのか「しそ風味」。最近はわざと地域色をだして売るという販売方法もあるし、どん兵衛の味が関東と関西では違うのは有名だが・・・。


4/16 おかめ納豆しそ風味

どんな商品にも「お客様相談センター」という電話番号が書いてある。今まで生きてきて、もちろんパソコンで困った時などはサポートセンターにかけたことがあるが、食品などでかけたことはなかった。が、このたび初めて掛けてみた。それはおかめ納豆でしられるタカノフーズだ。

なぜ、お客様相談センターにかけたのか。それは「おかめ納豆しそ風味」についてだ。この商品。私が実家に帰ったときに家の冷蔵庫に入っていたのだ。おなかがすいたので、いままでみたことのないその「おかめ納豆 しそ風味」を食してみた。「うまい!!」サイコーだった。冷蔵庫に入っているのを全部食べ、また、後日、近所のスーパーで買ってきて食べた。

東京に帰ってきてからも「おかめ納豆」をみてみても普通のしかない。「しそ風味」がないのだ。何件もスーパーを回ってもない。おそらく地域限定商品ではないかとおもって、HPをみるとやはり西日本でしか売ってないようだ。しかし、あきらめない。「お客様相談センター」に電話することにしたのだ。

電話にはすぐに出てきた。「おかめ納豆のタカノフーズです。」とお姉さんが言った。

「かくかくしかじかで東京でしそ風味をさがしています。」

「どちらにおすまいですか?」

「〇〇区です。」

「少々お待ちください。」

お姉さんがせっかく調べてくれたが、近所では売ってないことが判明した。残念。どのお店もちょっと遠いのだ。ライフには売っているとのこと。後日、このライフに確かに「おかめ納豆しそ風味」が売っているかどうかについてレポートする。


3/28 NGOの問題について

近年、NGO、NPOが注目されている。NGOは「ノン・ガバメント・オーガニゼーション」(非政府組織)、NPOは「ノン・プロフィット・オーガニゼーション」(非営利組織)だ。どちらも言葉はちがうが実質は同じ、つまり政府でもなく、営利組織(企業)でもない組織のことだ。

言葉のことなどわからなくても、大体イメージは出来ていると思う。一般的には「社会の役に立つことをやってくれる民間組織」というほうがわかりやすい。ボーイスカウトとか、ガールスカウトとかそういうのも一種のNGOだし、ユースホステル協会などもそれの一種になる。お金のためよりむしろみんなのためを重要視しているのだ。

ところが、少し前のことだが、アフガン復興会議で、日本のNGOがよばれるかよばれないかでもめていた。もちろん、一政治家があれこれ権限を逸脱して、政府のやりかたを捻じ曲げるのは良くないと思う。だが、その前にあのNPOが会議に出席することにいかほどの意味があったのかよくわからない。今回、あの団体のホームページを覗いてみると、たしかにアフガニスタンに対する活動をやってはいるようだ。だが、はっきり言ってパッとしない感じ。世界中あちこちの援助を広くやっているようで、それはそれで結構だが、あの団体がアフガニスタンの国際会議に招かれねばならないほどすごい団体とは思えなかった。あの団体は日本のNPOの中では規模が大きいほうらしくて、日本発の海外援助団体としては資金力もあるらしい。でも、「規模が大きい=呼ばなきゃならない」という図式は成り立つのだろうか?

NGOがノン・ガバメントと呼ばれるのは「政府じゃない」からだ。政府というのはあくまでもその国家の中でしか動けない。日本政府が日本国民の税金でやっている以上、日本のためにやることになるわけだし、アメリカだってその他の国だって同じだ。NGOがなぜ必要なのか、それは国家を超えて身軽に動けるからではないか?国家では簡単にはやれないことを善意と意思と身ひとつで国境を越えることこそNGOの魅力であり、メリットなのだ。逆にいうと、わざわざ寄付金とか集めて、政府のやれることをやったんじゃ意味がないということでもある。政府のやれないこと、見捨てられやすいところにあえて乗り込んでいかなければ意味ははない。会議など政府に任せておけばよいのだ。

もし、真にNGOであればたとえ各国が利害で右往左往したとしても、「関係ない!自分たちの意志でやる」といわなければならない。たとえ、会議に呼ばれなくてもよいのだ。自分たちで金を集め、真に必要とされていることをすべきだ。会議に呼ばれるかどうかなんて細かいことを気にしているようでは、たいした仕事は出来ない。鈴木さんにいじめられたからといってネチネチ文句を言いつづけるのはいい態度ではなかった。そんなヒマと時間があるなら、国会で「アフガニスタン支援はこういう風なところにも気を配ってくれ!!」というようなNGOらしい発言をしてほしいのだ。


3/26 凶悪な!!日本人

大学時代に友人から聞いた話だ。彼女は大学主催の研修旅行でエジプトとトルコをめぐる旅行に参加した。帰ってきた後おもむろに、エジプト話をしてくれた。

彼女はエジプトで、面白いお土産やを発見した。その店の店主は大きな声で「この店たかーい」「この店たかーい」と日本語で言いながら客引きをしていたらしい。それを聞いた日本人がびっくりしてその店の前で足を止める。そんなふうだから、店の店主は自分の日本語での客引きが巧くいったと思って、ますます「この店たかーい」を連発する。すると、日本人はまたまたたくさん足を止める。そんな風で日本人がずいぶん足を止めていたらしい。彼女もその客引きの面白さに足を止めたらしい。いったい誰だろう、かれにうそを教えたのは。でも、ある意味成功している。「この店やすーい」ではだれも足を止めまい。だが、どっちにしろ胡散臭すぎて買わないか・・・。

でも、決して日本人は真実を彼には教えないだろう。いや、それが彼のためなのだから。


3/26 劇場版 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ大人帝国の逆襲

さいきん、アニメコラムコーナーとなっているので、どうせならどんどん書いちゃえシリーズの一環。

クレヨンしんちゃんはその衝撃的なアニメデビューからもう10年ぐらいたっているのではないか。非教育的といわれながらも根強い人気で、いまだ毎週放送中。そして今年は劇場版10作目が公開するらしい。もはや日本を代表するアニメのひとつになっている。アジアではアニメも漫画も広く普及しており、やっぱり、台湾あたりでも社会問題になりつつ、それでも人気なんだそうだ。アニメに出てくる子どもというのはサザエさんのかつおにしてもどちらかというとかわいげのあるいたずら坊主という典型を破り、しんちゃんはまったくかわいげがない。いわゆる大人が理想とする子ども像を正面から否定しているのがいいな。とおもう。それはしんちゃんだけでない。リアルおままごとの好きなネネちゃん、やたら知識派の風間くんもぜったいおとなの理想の子どもの姿じゃないんだよね。

さて、クレヨンしんちゃんの毎年ゴールデンウイーク公開の劇場版だが、たいていどの年も評価は高い。でも劇場に行く人は少ないのかもしれない。あとでテレビで放送されるので・・・。わたしもクレヨンしんちゃんを劇場に見に行ったことはなくて、テレビでちょっと見ただけだ。でも、この作品の評価の高さに、ビデオが発売されてからすぐに借りた。すごい。名作だ。なるべく多くの人にこのアニメが普及するために活動しなければとおもわせる。なぜこの内容で日本アカデミー賞にノミネートもされなかったのか理解できない。ジブリはともかく、まだまだアニメは評価の対象には入らないということか。それともテレビアニメの劇場版だからだめなのか?いや、「踊る大捜査線」がノミネートされたわけだからテレビとは関係ないはず・・・。つまりは連作「トラさん」とか「釣りバカ」とかのように連作シリーズだとだめなのか?そのへん事情がわからない。

クレヨンしんちゃんの劇場版はいつものテレビ枠ではできない冒険ストーリー。ドラえもん方式を採用している。ドラえもんもなかなか名作が多いことを考えるとこの方式は非常にいいのかもしれない。(わたしはドラえもんを劇場で見たのは一回だけだが、面白かったのを覚えている。)

タイトルから考えると「大人対子ども」とおもうが、実は「過去対未来」なんだなあ。現在に自信を失った大人、過去を懐かしむ大人、未来より過去のほうがすばらしいのではないかと思う大人に対する痛烈な風刺だ。子どもにはそれほど過去がない。だから過去を懐かしんだりしない。そんな子どもの持つ力って、やはりすごいなとおもう。夢があった過去。懐かしいあの時。夢がなくなった現在。でも夢がなくなったって、でも何もないわけじゃない。

この作品の真の主役は父親のヒロシだ。現実は幼かったときに見た夢のようにはならない。でも、「俺の人生はつまらなくなんてない。」そう叫ぶヒロシの姿はこの映画が子ども向きじゃないことを示している。すべての大人たちへのエールなのだ。懐かしがってもいいけど、過去ばかりにとらわれちゃいけないよ。だって、子どもたちは過去はない。未来しかないんだから。子どもたちを自分たちの過去で縛っちゃいけないよ。そういっている声が聞こえる。

この作品はちょっとスパイシーでありながら、でもいつものクレヨンしんちゃんのもつ「かすかべ防衛隊」の活躍やアクション、ギャグなどもいつものように満載だ。だから、子どもが見てもそれなりに面白いと思う。ただ、悪役が「チャコちゃん、ケンちゃん」というのは世代的にわたしもわからない。おそらく40歳以上が本当のターゲットだ。


3/25 モンスターズインク

モンスターズインクを見た。せっかくの休日だったので、映画館でロード・オブ・ザ・リングとモンスターズインクのどちらかを見ようと思った。モンスターズインクのほうが早く見ることが出来たのでそっちにした。ほんとうにシネコンは便利だ。大好きだ。

モンスターズインクはピクサーのCGアニメだ。ピクサ―はCGアニメでは画像、ストーリーともに高質のものをいつも提供している。モンスターズインクも絶対外れないだろうという確信があった。そして予想通りまったく外れない。すばらしい。ディズニーアニメのレベル低下が嘆かれて久しいが、ディズニーの低下と反比例して子会社のピクサ―アニメがどんどん力をつけている。

トイストーリーでは完全にオリジナリティーが目に付いたが、このモンスターズインクはオリジナルストーリーの作品だけどそれほどオリジナリティーはない。ストーリーもありきたりだし、結末も最初から決まっているようなものだし、悪の黒幕の正体も子どもならびっくりするかもしれないが、大人ならやっぱりといったところだ。だが、良質だ。テンポ、そして美しい映像、細かいギャグ、そしてなんともかわいい設定、見ている人の心をくすぐるすべをすべてわかっている。子どもにわかりやすく良質なものを届けるという意味で成功しているし、大人が見ても十分わくわくするぐらい映像もテンポも手抜きがない。子供向けだが子供だましではないのだ。

まだまだモンスターズインクをこれから見ようと思って見てない人もいると思うので、これからの方はここから下は読まないほうがいいかもしれない。

モンスターズインクはモンスターの世界にある最大のエネルギー会社だ。モンスターズインクではたくさんの子どもたちの部屋につながるドア(まさにどこでもドア)があって、日夜脅かし自慢のモンスターたちがそのドアから子どもたちの部屋に進入して、一人で寝ている子どもたちを脅かす。そして子どもたちの叫び声を集めてエネルギーとして供給しているのだ。モンスターの世界のすべてのエネルギーは人間の子どもたちの恐怖の叫び声なのだ。

サリーはこの会社で子どもたちを脅かす仕事をしている。この会社ではトップの成績で会社の英雄だ。マイクはそのサリーとともに仕事をしているパートナー。二人はこの会社のテレビコマーシャルにも出演しているぐらいなのだ。モンスターの世界では最近エネルギー不足。近頃の子どもたちはモンスターを見てもちっとも驚かないのだ。会社の社長はなんとか有能な人材を育成しようと子ども驚かし練習用シミュレーターまで作ってがんばっている。しかし、なかなか難しいのだ。モンスターの世界は子どもの叫び声のエネルギーを集めているが、その反面人間の子どもに触ると死んでしまうと信じられているため、モンスターたちは子どもたちを脅かしながらも、子どもたちの体に触れることや、子どもたちの持っているものに触れることきらう。子どもの靴下ひとつが発見されても、廃棄物処理のエキスパートチームが洗浄のためにやってくるぐらいなのだ。

サリーはこの会社のエースだが、もちろんそれを快く思ってないライバルのランドールがいる。が、実力ではぜんぜん叶わない。サリーは自分の驚かす技術に自信を持っている。ライバルのランドールはいつも悔しい思いをしているのだ。

ある日、マイクはこの会社の受付嬢の彼女とレストランへ行くデートの約束をする。マイクはうきうきだが、なんと会社のガミガミおばさんに今日までに報告書を出せといわれていた。彼女を待たすわけには行かないとサリーにかわりに机の上の報告書を出しておいてと頼む。サリーはいわれたとおり会社の机の上の報告書をとりに行くが、ちょうどその時会社でランドールを見かける。ランドールが自分が会社のトップ成績になるためにずるして、会社の終業時間のあとにひとりでこっそり子どもたちの叫び声をあつめていたのだ。サリーはランドールが向こうに行った後、ランドールがこっそり出したどこでもドアの前に立った。あけると向こうは子どもの部屋。そこにはなぜか人間の女の子がいた。2歳ぐらいの彼女はぜんぜんサリーを怖がらずにくっついている。サリーは慌てて、ドアの向こうの部屋に女の子を戻そうとするが、女の子はモンスターが気に入ってしまったのか、サリーの体にくっついてモンスターの世界に来てしまう。なんだかんだしているうちに、ランドールがもどってきてしまい、ドアを片付けてしまった。サリーはしかたなく女の子をバッグに詰めて、あわててマイクのもとに駆け込んだ。

マイクは彼女とすしレストランでデート中。彼女とラブラブないい感じのところにバッグを抱えたサリーが飛び込んでくる。バッグの中の女の子はちっともじっとしておらず、ちょっとサリーがマイクに相談しているうちにあちこちと歩き出す。サリーが気づいたときにはもうおそい、人間の女の子がいるとわかってスシレストランはおおさわぎになってしまったのだ。みんなが混乱しているうちに、サリーとマイクは女の子を抱えて逃げてしまうが、モンスターの世界では人間の女の子が入り込んだと大パニックになってしまったのだ。

サリーとマイクはとりあえず家に女の子をつれてかえったが、どうすればいいかわからない。女の子のほうはサリーもマイクもまったく怖がることなく、むしろサリーやマイクのほうが怖いのだ。とにかく彼女を寝かしつけようとする。が、女の子は寝ると怖いモンスターがでてくるのではと不安そうな顔をする。サリーは「怖いモンスターはここにはいないよ。」といって彼女が寝るまでずっとそばにてあげるのだ。サリーはこの女の子にすこしずつ情が移ってしまう。

とにかくなるべく早く彼女を人間の世界に返さなくてはいけない。サリーはとりあえず即席のモンスターきぐるみをつくって彼女に着せる。そして親戚の子どもといって会社につれていくのだ。ここでもマイクとサリーの心配をよそにちっともじっとしていない。ちょっと目を離した隙にどこにだって行ってしまう。サリーははらはらしながらもそんな彼女がかわいくてしかたない。ついには「ブー」という名前まで付けてしまうのだ。ちっともじっとしていないブー。そしてなかなか見つからない彼女の部屋のドア(どこでもドアがすごい数ある。特定の先にしかつながっていないのだ。どこでもドアじゃないけど。形状はどこでもドアです。)そして、逃げた子どもが自分の管轄のドアの子どもであり、子どもをサリーがかくまっていることに気づいているランドール。マイクはとりあえず、ランドールにブーの部屋のドアを出してもらって、ブーを返そうとする。だがサリーはランドールを信用できないといって拒否する。やはりサリーの思ったとおりランドールのわなだった。ブーのかわりにマイクがつかまってしまう。マイクを救出するサリー。そして、サリーはこの状態を解決するために会社の社長に相談して、ランドールがわるいやつだということ、ブーを元の世界にもどすのに協力してもらうために、すべてを告白する。が、それもわなだった。社長とランドールは手を組んでいたのだ。

マイクとサリーは社長により人間の世界に追放されてしまう。ふたりが来たのはヒマラヤだった。とりあえず二人は現地の雪男にたすけてもらう。雪男はのんきに追放生活を人間世界でたのしんでいた。サリーの頭の中はブーのことでいっぱい。何とかしてブーを助けたいとそればかりだ。マイクはそんなサリーに不満。そこまですることないじゃないかと思う。サリーは雪男にふもとの村に行けば人間がすんでいると教えてもらって、あわてて自作のソリをつくって、ネパールのむらに一人急いだ。ネパールの人間の子どもの部屋のドアをつかってサリーはモンスター世界に戻ってくる。そしてブーを助けるべく大奮闘。マイクもサリーを追ってモンスター世界に戻ってきた。サリーとマイクはブーをたすけ、はやくブーを人間の世界に戻すために、ドアがたくさん保管しているドア保管庫に行く。信じられない数のドアの中からブーのもどるドアを探さなければいけないのだ。もちろんランドールも追いかけてくる。そして、ランドールとの最後の決戦となるのだ。

ランドールを倒し、そして最後の社長も罠にかけて勝利する。そして意外な事実がわかる。実は社長の不正は当局からすでに監視されていて、なんとあのマイクに報告書をだせとがみがみ言っていたおばさんは当局の潜入捜査官だったのだ。潜入捜査官のおばさんはブーを人間の世界に帰す前に5分だけサリーにお別れの時間を用意してくれた。ブーを元に戻すサリー。ブーを戻した後、ブーの部屋に続くドアはシュレッダーにかけられた。もう二度と二つの世界がつながらないようにするためだ。そして会社もつぶれた。二人は失業したのだった。

そして・・・。最後はまあ、アメリカならではのハッピーエンドといったところ。けっしてむなしくはおわらないのだ。

エンディングではなんともかわいいNG集がでてくる。みんな演技をミスってる。なぜに―――――。さいごまで笑わせてくれますなあ。

とにかくひたすらブーを元に戻し、悪いやつをやっつけるという話。話は単純。でも展開にスピード感があり、まちがいなくおもしろい。話がとまると子どもが飽きてしまうだろうから、どんどん展開させるという作戦なんだろうなあ。見事です。

ちらほら日本人向けサービスなのか、デートするところがスシレストランだったり、(板前がタコで、しかも「志」のハチマキをしている。)また、ドアをどんどんひらいて逃亡するシーンではなぜか日本に行ってしまい、ドアが引き戸で戸惑ったりする。バックはフジヤマだ。おそらくアメリカに継ぐ収入が見込める国はまちがいなく日本だから、営業戦略でしょうかねえ。

遊び心いっぱいの作品。製作者は楽しかったと思う。モンスターを主題にしたのはポケモンの人気にあやかったのと、ブーのイメージの源は「トトロ」のメイなんだろうなとわかる。トトロを怖がらないメイとサリーを怖がらないブーはつながっている。ドアはどう考えても「どこでもドア」だよ。オマージュたっぷりなので日本人には楽しめる作品だなと思う。


3/24 宮崎勲が怒っていることについて考えた

もうずいぶん前だが、私も大絶賛している「千と千尋」がベルリン映画祭で金賞を受賞した。よい映画がそれにふさわしい評価を受けたことについてはすなおに良かったと思う。だが、少し考えたことがあった。それはその受賞会見で宮崎氏が言っていた事についてだ。あの宮崎氏のインタビューは「アニメ―ジュ」にすべて掲載していたので、それにもちょっと書店で目を通した。それについてかんがえる。

おおくの宮崎ファンやあの記者会見に詰め掛けた記者たちは、きっと日本アニメが世界的に評価されているということで誇らしい思いで見ていたと思うし、宮崎氏からもそのようなコメントがでてくるとおもっていた。が、一転、でてきたのは宮崎氏の激しい日本アニメに対する落胆、そして非難だった。おそらく記者たちもあの会見を見ていた普通のファンもちょっとおどろき、そして期待と違っていてがっかりしたのではないかとおもう。が、宮崎氏は現在、日本ではクリエイターとして最高の評価を受けている人だし、その実力もまちがいない。宮崎氏について反論したり不快感を示すことなんて紙面上ではおそらく誰にも出来ないだろう。でも、わたしは宮崎氏の発言はちょっとやりすぎだとおもった。心の中で思っている人は意外に多いと思う。

優れたクリエーターが優れた人格者とか模範的な人物でないといけないというのは悲しいかな幻想だ。感情が爆発するときはある。いつも冷静な平常心ではいられない。だから、べつに宮崎氏が悪いとは思わない。人間誰しも不満とか、いらだちとかそういうものを抱えているし、抱えているからこそそこからの飛躍もありえると思う。宮崎氏はただ素直に自分の心にたまったものを吹きだしたに過ぎない。そして、宮崎氏がそいういう苛立ちを抱える気持ちも十分に理解できる。宮崎氏の指摘することは当然だとおもう。が、あの場、あの記者会見の場では明らかにふさわしくなかった。かれは不満だったとしてもあそこで表明するべきではなかった。でも言わずにいられなかったのだろうとおもう。

いま、日本のマスコミは宮崎氏をひとりのヒーローとして扱いたがっている。それが本人にとってはいちばん腹立たしいことなのだ。華々しい受賞の会見で、あちこちから本人が必要としている以上の賛辞がおくられ、自分に自然と責任を押し付けられる。日本のトップとして活躍し、それにふさわしいように振舞うようにという無言の圧力だ。彼があそこでそういう期待をあえて叩き壊すように大人らしくない発言に出たのは、マスコミに対する、そしてあれこれ期待する日本人に対する軽いジャブなのだ。

宮崎氏が発言することは大人気ないちょっと感情的な言い方だったと思うし、晴れがましい席だったわけだし、本来はああいうことはだめだ。が、いっていることはもっともである。日本のアニメすべてが世界に賞賛されるレベルとは到底いえない。まだ、世界よりすぐれているのは一部だけだ。日本で出来ているアニメの中にはどう考えても、「よくまあこれを作ったね。」とあきれてしまうものもある。日本アニメはジャンルもクオリティーも幅が広いのだ。日本はアニメが盛んな国だし、日本人はアニメが大好きだ。でも、日本のアニメの抱える課題は多く、手放しでよろこべる状態ではない。なのに、マスコミ報道では日本アニメは世界一と書きたがる。現状を知っている人が反発したくなるのもわかる。

それに、私個人の考えだが、日本ではまだまだ完全オリジナルのアニメというのは少ない。というか、原作漫画のないオリジナルアニメは昔よりも減る傾向にあるのではと感じている。日本のテレビアニメが当初手塚氏によってリードされたことなどを考えれば、日本アニメにおける漫画の位置が高いのは当然だろうと思うし、日本の漫画だって世界的水準で比べれば高いほうだとも思う。でも、アニメサイドでプロットから手がけられるの作品は少ないというのはアニメにあこがれ業界に入るクリエーターにとって残念だろう。得ているのはスタジオジブリぐらいだ。いまだアニメ業界は動く漫画の限界をなかなか超えられない。越えているクリエーターもちらほら出てきているが、そのへんはこれからの課題だろう。

宮崎氏がそういう問題に敏感に反発する理由は、第一線で活躍しているために、結局日本のアニメの代表的な肩書きになってしまい、日本アニメの膿を引き受けさせられがちだからではないか。日本アニメにある暴力描写、性描写は海外ではなかなか理解されずらい。おそらく宮崎氏は近年のジブリの海外進出でそれを真正面に受けてしまったのではないか。日本人にはすっかりなれてあたりまえになっている表現が、海外ではタブーなのだ。トトロや魔女の宅急便などのアニメが比較的すんなり海外でビデオ販売や、劇場公開にいたっているのに、天空の城ラピュタがいまだに劇場公開できないのは残酷描写が多すぎるからだし、「もののけ姫」にしても評論家筋からは高い評価をうけたが、一般にはそれほど受けなかった。海外に行くたびに日本のアニメの残虐性とか(ドラゴンボールなどの日本の普通のアニメも海外では公開され、すでに信じられないほどの人気がある。)あれこれいわれたのではないかとおもう。というか、いわれるだろうなあ。それに、日本にはクオリティーの低いアニメや意味のない性描写の多いアニメが存在することを知っているし、否定できないし。苦労していると思う。そういう実体を知っている人としては、日本のアニメがどういう評価をされているのか、身にしみているので、手放しでは到底喜べないのではないか。私は千と千尋は映画祭では評価されたから、世界中で配給はされるだろうが、どれぐらいヒットするかはきわめて難しいと思っている。

ドラゴンボールとかポケモンなどの日本のアニメはたしかに海外の子どもたちに人気がある。日本のジブリなどのハイクオリティーアニメは評論家筋には評価が高い。が、一方で、ドラゴンボールやポケモンにたいして残虐だとかくだらないとか苦々しく思っている大人たちは多いし、大人向きのハイクオリティーなものでも、ヒットは非常に難しい。(アニメは子どもが見るものという先入観があるからだ)海外では暴力的で、いやらしいアニメは日本のアニメ、美しくて健全なアニメはヨーロッパまたはアメリカのアニメと思われている事実も忘れてはならない。「アルプスの少女ハイジ」はヨーロッパで何年も前から繰り返し放送されているが、ほとんどヨーロッパまたはアメリカのアニメと思われている。日本のアニメらしくない(暴力的ではない)からだ。宮崎氏は日本のアニメの代表として、海外から聞こえてくる声を良く知っている。ジブリのアニメが日本では評価されても海外では評価されにくい、ヒットはもっと難しいことを良く知っている。だからベルリンでの結果は意外だったと思うし、それに特別に喜ぶというほどでもないのだろう。無邪気によろこんでいるのは何も知らない人だけだ。

宮崎氏はあまりにも多くの負担を負っている。クリエーターとして良いものを作らないといけない。会社の一員として作品で成功しないといけない。海外から聞こえてくる日本アニメの暴力性、性描写にたいする非難を身代わりに受けなければいけない。そして、最後にかれが唯一のアニメ界のトップだということ。アニメの監督の名前で確実に観客が呼べるのは宮崎アニメだけだ。まだまだ宮崎駿の肩の荷を引き受けてくれそうな新人は育ってこない。「俺にそんなに背負わせないでくれ。」と叫んでいるようだ。

最後に宮崎氏は、アニメのビデオを売りながら、それによって子どもたちが画面にかじりついてすごしていることを嘆く。アニメが産業となり、ジブリは多額のお金を稼ぐようになった。子どもたちの貴重な時間を奪ってお金を稼いでいるという自責は、大金を稼ぐほどに深くなるのだろう。そういう自分の抱える矛盾をすなおに吐露したのは、彼の真のやさしさだと思う。でも、吐露する場所をまちがえたな。できればアニメ―ジュ誌上とか、エッセイ本などを出す形で世間に示したほうがスマートだった。悩む宮崎氏を見て、とにもかくにも、宮崎氏か高畑氏のどちらかが健在であるならばジブリはとりあえず、変な方向には行かないと思う。ああ、宮崎氏がいうとおり、もっと独創的にして、力のある監督があらたにアニメ界を背負って立つべく出現してほしい。


3/23 愛を乞う人

先日、ブックオフに行って立ち読みしていた。その時たまたま「愛を乞う人」のコミックを発見した。映画が大変評判だったのを耳にしていたが、映画は見たことが無く、興味があったのでそのコミックを手に取った。ちなみに原作は小説である。小説、映画、コミックと設定やストーリーに若干の違いがあるかもしれない。私が読んだのはあくまでコミックだ。

主人公は夫と思春期の娘とくらす平凡な主婦。夫はやさしく娘はかわいく、幸せな生活をしている。だが、彼女は少女時代に母親からひどい虐待を受けていた。そのことはすでに夫には告白していたが娘には告白できなかった。娘には「おばあちゃんは死んだ」と言ってあった。彼女は高校を卒業して働けるようになったあと、会社で出会った夫とともに母親から逃げるように結婚したのだった。

そんな暗い少女時代を送っていたが、彼女は自分を昔かわいがってくれていた父のお墓を探すことを続けていた。夫も協力してくれて、昔の父を知る人を一人一人訪ね歩いて、父の昔の様子を聞いて回った。父の過去を探すたびは同時に母との事を思い出す旅であった。父親の遺骨は父の親しかった人が代わりに埋葬してくれていた。父のお墓をみつけて旅は終わった。

その後、ある日突然病院から電話がかかってきた。弟が入院したと言うのだ。自分が逃げるように家を出た後、父親違いの弟とは一度も会っていなかった。弟は入院しても呼ぶ家族が無く、しかたなしに姉に電話をかけてきたのだ。会うか会わないか悩んだ。弟に直接恨みは無いが、もし弟に会うことがきっかけで母親に今の生活が知られてめちゃくちゃにされたら・・・。そういう思いがあった。が、結局病院に向かった。弟はそこでいままでのことを語った。弟は母から虐待を受けなかったが、母親がいつも姉を虐待しているのを見て育ち、母親の荒れた生活に嫌気がさして中学卒業と同時に家を飛び出した。その後結婚したものの離婚して今は一人ということだった。心のどこかで弟は虐待を受けず、自分だけ虐待を受けたことを逆恨みしていたが、弟は虐待は受けずとも同じように心に傷を負っていたのだと知った。

しかし、この弟との再会によって、娘にずっとお母さんの家族はいないと説明していたのが嘘だとばれてしまった。しかたなしにいまでも祖母が生きていること、そしてお母さんはずっとおばあちゃんから虐待を受けていたことを娘に話した。娘はそれを聞くと、「復讐するべきよ。」と言った。「復讐するために祖母を見つけよう。」と言い出したのだ。

虐待を思い出すたびにつらいし、ふたたび母親に会うのは怖い。おそらく今でも母親は荒れた生活をしているだろう。しかし、母親を探すたびに出る。母親は自分が知っているだけで3回結婚している。なくなった自分の父、その後、弟の父親にあたる男性、そして最後に公務員だった男性。とりあえず自分が家を出たときに義父だった三番目の夫の家に行ってみた。が、家に母親はおらず、調べてみると義父はなくなっており、母親は行方不明だった。が、最終的には母親の居所を突き止める。そして決心して母親に会いに行く。相変わらず酒と男の生活をしているようだ。ちっとも変わっていない。そして彼女が期待したようにやさしい言葉をかけてくれるわけでもない。が、彼女はずっと心にたまっていた母親の愛を乞う気持ちを整理し、母親と最後の決別をする。

最終的に親子が和解しないのがすばらしい。ものすごい虐待のシーンは、映画でずいぶん話題になっていたようだがコミックでも本当にすさまじいので、必見だ。これを読んで思ったのは「なぜ母親がここまで自分の娘を虐待するのか。」ということだ。ついで言うと「なぜ夫や息子ではなく娘だけなのか。」という二つの点だ。読んだ直後はあまりのすさまじさに冷静に考えられないけれど、読んでしばらくすると整理できてくる。

ひとつには自分と似ているからだろう。母親による娘への虐待・母と娘の確執を描いた作品としては「イグアナの娘」があるが、この作品でも母親が娘を虐待した理由は自分と似ていたからだ。それと同じだろう。母親は自分がいやで仕方なくて、自分のいやなところを娘を通して目の間に提示されるのがいやで、娘が日に日に自分に似てくるのがいやで虐待せずにいられないのだろう。この「愛を乞う人」の母親は過去にレイプされた自分、レイプされた結果としてうまれた自分の娘、自分がレイプされたことを知りながら自分にやさしくしてくれる夫そういうものすべてが彼女の怒りになる。自分にやさしかった夫を捨て、娘を捨て、次々と新しい男を捜し、欲望のままに娘を殴り、ののしる。それは自分自身の醜悪さをより清浄なものへと変化させていくための化学反応で生じる熱のようなものだ。娘を殴れば殴るほど、自らの行為は清浄化され、そして許される。娘をみると自分に似ている。娘はいずれ自分のようになる。きっと自分のようにだめ人間になる。母親にはそれが許せない。自分のようになるだろう娘に対して激しい攻撃を加えずにはいられない。

昨日、ひどく娘を殴ったことを正当化する一番手っ取り早い方法は、今日もっとひどく娘を殴ることだ。そうすれば、今日に比べて昨日はまだましだったということで許される。次の日にもっと殴れば今日の分も許される。毎日やれば毎日許される。母は自分の、自分に似た娘を殴ることで自らを罰し、その罰によって彼女の罪は許され、彼女は救われるのだろう。毎日罪を犯し、毎日罰を受け、毎日許され、毎日癒される。それが止まらない連鎖だ。

母親は自分の堕落した罪をだれよりもわかっている。だから自分を責める。許してほしいと思う。たがただでは許してもらえるはずもない。だから自分の半身である我が子を神にささげる。神に許しをこう。我が子を犠牲にささげた母はその罪を許される。だから、母親は自分の娘を殴ったことを反省しない。する必要も謝る必要も無い。なぜならすでに彼女は罰せられたあとであり、すでに許されているからだ。神に犠牲をささげる罪深き人間と、ささげられる羊との間の和解がはたしてあるのか。それはきわめて難しい問題だ。しかし、犠牲である娘はそれでも自分の魂と肉体を犠牲にささげる罪深き母を憎みつつも愛する。

犠牲にささげるのは他人ではだめだ、自分に一番近いもの、自分と肉体と魂を分け合ったものでなくては犠牲にささげる意味はない。だから母親は娘をささげる。自らの恐ろしい罪の許しを請うために。

神は言われた、「君の子、君の愛する独り子、イサクをつれてモリヤの地に赴き、そこでイサクを私が示す一つの山の上ではんさいとしてささげなさい。」

関根正雄訳 「旧約聖書 創世記」 岩波文庫 1956 p59 第22章2行目より引用


11/25 千と千尋をもう一度考える

千と千尋はだいぶ前に一回見て、そして先週また見る機会があってみてきた。2回目だとストーリーを知っているので新鮮さやどきどき感は無いけれど、細部まで冷静に見ることができて、それはそれでよかったとおもう。

で、はじめ見たときは、千と千尋をこれからみたいと思っている人も多いだろうし、あまり書くのもよくないと思ったけれど、もう本当に見たい人はあらかた見たと思うので、細部についてちょっと語ってみようと思う。

今回、2度目見たとき、いっしょに見た人の数人は「あまり理解できなかった。」といっていた。yahooのレビューを見ても、かなりそういう感想の人は多い。私が思うに、ジブリの作品というのは大抵一度見ただけでは良さがわかることは少ないと思っている。ナウシカ、もののけ、トトロ、紅の豚、魔女宅それらのすべてについて、はじめてみたとき、「たしかに映像はすばらしいし、オリジナリティーにあふれているけれど、ストーリーがなんだかインパクトにかけるな。」とおもった。一見しただけで「ストーリーがいい。」とおもったのは、ラピュタと千と千尋、ほたるの墓、おもひでぽろぽろ、平成狸合戦ぽんぽこだ。ジブリ作品は幸いテレビで何度も放映されるし、その機会に何度も見て理解するべきものだと思っている。ナウシカをはじめてみたとき、「なんだこの虫は。」と驚いてしまって、ストーリーまで気が回らなかった。オリジナリティーとイマジネーションがすごいため、そっちに目が行ってしまい、ストーリーを理解するのが後回しになってしまうがする。虫になれて、「こういう虫がいるのだ。」と思ってしまえば、ちゃんとストーリーに目が行きどどくのだ。つまり、私の意見としては「映画を見てわからなかったら、テレビ放映を待ってもう一度見たらいいよ。」ということなのだ。

で、千と千尋の内容についてだが、これが「少女が自分自身で生き抜く力を身に付ける」話であることは、監督本人も言っているし、見た人はすぐにわかるとおもう。親に何不自由なくそだてられて、自分で何か必死で解決したり、自分からなにかやろうとしなくても、別に生きていける。それが自分で歩き出すようになって、自信と力を得ていく。千尋があの世界に迷い込んだのは偶然ではなくておそらく必然だろう。迷い込んだのが偶然であると解釈すると、「千尋は偶然に変な世界に巻き込まれて、自分の力でそこから脱出する」話と思ってしまうが、実はそうじゃない。あの世界に迷い込むことができるのは千尋だけだし、千尋でなくてはいけないのだ。つまり、あの世界はいま私たちの住む世界とは違った異次元の世界ではなくて、千尋のために用意された世界だ。もし、あのトンネルをくぐったのが私なら、あの先にあるのは油屋ではなく、又違った私のための世界が広がっているだろう。この世にいる人間の数だけ、トンネルの向こう世界が用意されている。すべての人に「今までと違った新しい世界」が用意されているのだ。人生は個人のものだ。すべての人に他の人とは違った人生が用意されている。

千尋のための世界では「両親がまったく保護者ではなくなってしまう。」というか、いままでの関係とは反対に、「千尋が両親のために必死で働く。」他人に働いてもらって、そのお金でなに不自由無い生活をするというのは、意外と苦痛なのだ。両親によって生かされているというのはありがたい話だが、心のおくには別の思いがある。自分自身でやってみたい。という思い。つまり、「大人になりたい。」「一人前になりたい」という感情だ。少年・少女にとって自分が一つ一つ大人になっていくということは、まさに最大の喜びといっていい。たとえば、「1人で出かけられるようになった。」「1人で買い物できるようになった。」「一人で料理が作れた。」「一人で解決できた。」そういうことを一つ一つクリアして大人になっていく。ずいぶん前なら15ぐらいで働きに出されることも珍しくなかったことを考えると、10歳にもなれば少しずつ大人になろうとしていく時期といっていい。千尋が10歳である必要があるのは、彼女が大人になろうとし始める時期だから。そして自分が大人になることの最大の障害になるのが「両親」の存在だ。正確に言えば「保護者」。それこそ子供の最大の敵なのだ。

邪魔な保護者さんには、向こうに行ってもらったとこで、千尋はハクのアドバイスで自分で仕事を見つける。職場はつねにいろいろな人(リンのような世話焼きの人、釜じいみたいに偏屈で口が悪いけれどなにかと面倒見てくれる人、湯婆婆のように意地悪な雇い主、お客には親切で愛想がいいのに、部下には冷たい上司)がいる。それにめげていては大人になれない。そんなこといちいち気にしていては人生やっていけない。親切な人にはありがとう。意地悪な人にはそれなりに要領よく。「意地悪な人=悪い人」ではないから、やり方さえわかれば何とか職場で自分の居場所を見つけることができる。千尋もはじめはリンに注意されながら仕事を覚えていく。やな仕事を押し付けられても、でも、やっぱうまくいけば達成感があってうれしいのだ。

この話のポイントは自分で生きる力を取り戻すこと。油屋でそれなりにみんなに誉められ、自信のついたた千尋はこの世界にとどまる理由は無くなる。もう、いつ元の戻ってもいいのだ。たぶん、ストレートなストーリー展開にするには、ここで元の世界に戻ってしまって、エンディングにするのがいいかもしれない。でも、この話は千尋とはちがった主人公をもう二人用意しているのだ。一人がカオナシ、もう一人がハクだ。

カオナシは脇役ではない。彼は油屋(職場)とも千尋とも関係の無い第三者だ。彼はたまたま千尋を道で見かける。千尋は彼を認めて、「ぺこっと挨拶をする。」その千尋の挨拶には特別な意味は無い。たまたま通りすがりの人と目が合ったので会釈しただけだ。でも、カオナシにとってはそういう意味じゃない。「「自分を認めてくれた人」なのだ。

自分を認めてくれた千尋を追いかける。すると、「入ってもいいよ。」という風に戸を開けてくれる。ちょっと控えめながらも入ってみる。千は札がほしいようだ。取ってあげる。もっとたくさんあげたらきっと喜んでくれるだろう。でも、いらないっていわれた。「なんで?」川の神様がたくさん金を落としていった。油屋の人はみんな喜んで金を拾っている。みんな金が好きなんだ。金がほしいんだ。金はみんなを喜ばせるんだ。じゃあ、千に金をあげたらもっと喜ぶだろう。油屋の人たちはこんなに喜んでいるのだから。でも、千はいらないっていう。「もといたところに返ったほうがいい。」って言う。なんで?せっかく千を喜ばそうとしたのに、一人じゃ寂しいから千を追いかけたのに。「さみしいよ。」

カオナシはその名のとおり「主体性」がない。自分が無い。自分自身では「あ、あ」しか言うことができない。(人を飲み込んだら、その人の声を借りてしゃべることができる。)自分で言いたいことがあるのに。一人じゃ寂しいのにコミュニケーションできない。だから、じぶんをちょっと認めてくれた人を追いかける。それが精一杯なのだ。カオナシは決して悪い人じゃない。(千尋もそういっている。「あの人はあそこにいちゃいけない。」って。)カオナシは未熟で、不完全で。千尋はあの油屋という今までとまったく違う世界にいっても、何とかがんばって自分の仲間や居場所を確保した。でもカオナシはそれができない。どうしていいかわからない。千尋が自分の居場所を得ていくように、カオナシも必死で自分の居場所を確保しようとしていく。でも、千尋がうまくやれたのと反対に、カオナシのほうは失敗してしまう。カオナシと千尋の差はなんだろう。おそらく根本的にはそれほど違いが無い。千尋の影なのかもしれない。千尋がもし「仕事をください。」ということすらできないほどの子であればまさにカオナシのようだ。何を言えばいいのかわからず、ただただ突っ立って、追いかけて、そういう状態になったかもしれない。千尋がカオナシをたまたま認めたのも、「入りませんか?」といったのも、河の神様がくれたお団子を半分あげたのも、最後にカオナシを連れて行ったのも、自分と似た部分を見つけたからかもしれない。(おそらく無意識だろうが。)千尋もカオナシも紙一重なのだ。

カオナシは散々油屋に迷惑をかけて、最終的にはすべての汚濁を吐き出して(カオナシは純粋ゆえに回りの汚濁を取り込んでしまう。主体性が無いだけに、周りに左右されやすい。)千尋と一緒に銭婆のところに行く。そして彼は自分の居場所を見つける。千尋が油屋で自分の居場所を見つけたように、彼も銭婆のところで自分の居場所を見つけたのだ。(銭婆が「あんたはここにいて。」といったことは彼にとって重要な意味を持つ。彼は千尋のそばにいたかったのではなく、誰か自分を認めてくれる人と一緒にいたかっただけだから。)

最後にハクだが、かれがこの作品で一番謎に包まれている。結局彼は小さな川の神様で、それはずいぶん前にうめたてられてなくなってしまった川なのだ。理由はわからないが魔女の弟子になり、湯婆婆の手先となる。かれがなぜ湯婆婆のところにいるのかはわからない。ただ、理由はどうあれ彼は自分の名前を忘れてしまって帰れなくなり、仕方が無く油屋にいたのかもしれない。千尋やカオナシのように成り行きで油屋にきたのにくらべて、彼は自分から主体的に油屋に来ている。自分からきたのになぜ来たのか、どうやって帰ればいいのかわすれてしまった。はじめはぜんぜん違うことのために来たのに、気づくとなぜ来たのかわからず、戻るに戻れなくなった。彼もまた主体性があったはずなのに、忘れてしまって、自分がなくなってしまった人間なのだ。

これは3人の人間が自分自身の人生を取り戻す話だとおもう。両親に甘やかされた千尋。一人で何もできないカオナシ。自分を見失ったハク。それぞれが最終的に自分自身の人生を見つける。千尋は前半だけですでに自分を見つけているから、後半部分がカオナシとハクとが自分を取り戻すという部分になるだろう。釜じいが「行くのはいけるが、帰りがなあ・・・。」という。それでも行く千尋。戻る列車の無いあの線路はまるで人生のようだ。(「ハクの背中に乗って戻ってきたじゃないか。」といわないでくださいね。)最後の豚の中から両親を当てるシーンにはおそらく意味は無い。自分自身を取り戻した千尋には、魔法でだまそうとしても無駄なのだ。


10/18 野菜が地面から生えていること・夜が暗いこと

私は大学生のころ、下宿生活をしていたのだが、そこの半数は外国人留学生というずいぶんかわったところに住んでいた。おかげで外国人を見ると無意識に怖気づく日本人の悪癖からは開放された。その生活には本当にいろいろなことがあったのだ。

そこにずいぶん変わった香港からの留学生が住んでいた。外国人だから変わっていたというより、彼女自身が変わった性格だったのだが、彼女が言っていたことで一番印象に残っているのは、彼女が日本にきてびっくりした事についてだ。実際に彼女が話してくれたのはもう日本にきて数年たって、彼女が日本の生活にも日本語にもなれたころだった。たまたま大学からの帰りが同じになったので、話しながら帰ったのだ。

大学から下宿先のアパートまで歩いて30分ぐらいあった、その途中は住宅地と畑ばかりだった。野菜の畑を見ながら彼女は言った。「日本はとっても都会で、みんなトレンディドラマのような生活をしていると思っていたけれど、実際はぜんぜん違ってびっくりした。日本には畑なんかないと思ってた。」

なるほど、確かにそういう意見は中国からきた留学生からも聞いたことがあったし、そもそも外国に留学するときの憧れの気持ちなんて、どこの国の人でも先入観があるものだ。日本人も驚くほどのトレンディドラマのおしゃれな生活をみれば、そう思い込んでしまうのも仕方ないかもしれない。でも、私は次のせりふで驚いてしまった。

「私は日本にきてはじめて畑を見たの。野菜が地面から生えててびっくりしたの。わたしは香港に住んでいるとき野菜の買い物なんてしたことがなかったし、(彼女がお嬢様というわけではない、お母さんが全部やっていたという意味)、日本にきて初めて野菜を買ったの。でも、それ以上に地面から野菜が生えているのに驚いた。」

なるほど、確かに香港に生まれて香港に育って、ビルの20数階にすんでいればそういう生活かもしれない。野菜を買ったことがなかったというのは彼女の家庭の環境によることだろうと思うけれど、香港の普通の生活をしている人にとって、野菜が地面か生えていることは知識としては漠然としてあっても、実感がないのかもしれない。私のように剥き出しの土があることも、雑草が生えていることも、野菜が生えていることもあたりまえとして育つということは決して、世界の常識ではないのかもしれない。ちょっと考えればわかることだけどそんなこと考えることもなかった。それは彼女が野菜がどうやってできるのか考えたことがなかったのと同じかもしれない。彼女の言葉は私にとって新鮮だった。

彼女が驚いたことはもうひとつ。それは夜が暗いということだった。これについては後日彼女が野菜と夜の暗さに驚いたことを、同じアパートの韓国人留学生にも話したら、釜山生まれ釜山育ちの彼女も日本の夜の暗さには驚いたという。(さすがに香港の子のように野菜にはおどろかなかったようだが。)つまり、香港や釜山に育った人にとって深夜まで電気で町が明るく照らされていることは当然で、日本の住宅地が夜の8時にもなろうものなら道も暗くなって、家の窓からもれた明かりやちょっとした道の電灯しかないというくらい状況が信じられなかったようだ。彼女たちにとっては街は深夜まで明るく、安全でにぎやかなのが当然なのだった。

香港からの留学生のこの言葉は本当に私にとってもショッキングだった。日本はなかなか田舎なのだった。京都市内の住宅地ですら田舎だなあと驚いた香港人の彼女にとって、もっと田舎はどう映るのだろう。そう思った。

その後、私はギリシア旅行のついでにシンガポールに行く機会があった。そしてそこで目にしたあまりにも近代的な町並みは、私にショックを再び与えた。ああ、あのシンガポールで生まれて育った人々にとっては、おそらく東京ですら非近代的な町並みに映るに違いない。彼女の言葉を思い出しながらそう思ったのだった。


9/16 驚くべきビル破壊から数日

もう一週間、テレビのほとんどのニュースを独占している。わたしは当日ちょうどニュースステーションを見ていた、だからほとんど最新の段階でニュースを知った。はじめは「そういう事故もあるのか。」とおもった。きっとセスナがミスをして運良く巨大ビルに衝突したのだと思ったのだ。テレビのキャスターもこの段階ではほとんど状況を把握しておらず、もちろん私も大事とは思わない。ありがちな飛行機墜落だと思っていたのだ。変だなと気づいたのは映像が流れてから。二つのビルからそれぞれ煙が見え、CNNのテロップに「Second plane hits bildings」とかかれているのを見たからだ。「セコンド?二機目?」二つぶつかったということなのか?しかし、そんな偶然があるのだろうか?
これは故意だと気づいたのは国防総省にも飛行機が墜落したとの情報を得てからだ。そのまえにいちおう大統領の「これはテロだ。」というコメントを見ていたが、そんなに信じてはいなかった。アメリカ人の大げさな早合点としか。それからテレビにかじりついた。ニュースはもちろん同じ映像と同じ内容のコメントを連発するだけだったが、それでも見つづけた。ニュースを読むキャスターの背の向こうのビルがひとつになったことにふと気づいた。ビルが倒壊したのだ。そしてまたもうひとつが・・・。大事になった。
ニューヨークのビル街などゴジラをはじめ、ずいぶんの破壊行為がすでに映画になっている。なんと、実際の破壊は映画ほど見事でも印象的でも美しくもない。なんというホコリ。それを丸ごとかぶった人。ショックのあまり立てなくなった人。頭から血を流している人。何を言っているのかわからないほど混乱している記者たち。同じ破壊シーンを何度も画面の前で見ている私。すべてが不思議だった。
実際の破壊はたった一度。いくらニューヨークが都会だったとは言えど実際のシーンを本当に目撃している人はおそらく数万人ぐらいだろうに。しかし、あの映像をなんどもなんども地球の裏側にすむ私が見ていることについて考える。ましてや全米の人はなんどもなんどもあの破壊とそれによっておびえた人々の恐ろしい映像をいやというほど見たのだ。なんとテレビは恐ろしい。あんなの何度も見たらほんとうに怒り狂ってしまいそうだ。実際にはたった一度のことなのに、何度も繰り返されるように面前に迫ってくる。これによる心理的影響は計り知れない。テレビとはなんとも恐ろしいプロパガンダ。当然のことだが改めて気づく。そして、テレビから流される大統領の演説。すべては同じ方向に動き出した。


8/4 オデュッセイア

私が大学生だったころ、病院の待ち時間が長いので、オデュッセイアを読んでいた。順番がきて呼ばれたので診察室に入ろうとすると、ちょうど入れ替わりにおそらく70は過ぎていると思われる小柄な老人が出てきた。彼はわたしが持っているオデュッセイアを見て、「それはいい。いい本だよ。」といった。わたしは「へっ?」と思ったが、診察があったので、そのまま診察室に入った。あの老人、見かけによらずオデュッセイアファンだったのねえ・・・。あとで振り返って思い出す。

しかし、老人の年齢を考えるとずいぶん珍しいかもしれない。オデュッセイアは日本では概要はともかく、そのテキストを全部読んでいる人は少ないし、ましてや目ざとく見つけておもわず「いい本だよ。」と見ず知らずの私に言うのだから相当好きなのだろう。70過ぎぐらいの見かけだったが、ずいぶんインテリな・・・。と思った。オデュッセイアはだれでも読んですぐに「いい本だ。」といえるような代物ではない。わたしも大学で講義を聞いたから、なるほど理解できたが、そうでなかったら難しかっただろう。楽しむコツさえつかめればいいのだが、つかめないうちは結構つらい本である。


7/25 千と千尋を見た

あまりにも暑かったので、クーラーの効いたところに行きたいと思って、映画に行くことにした。今はやりのシネコンでショッピングセンター内にある映画館だったので、映画の時間まで店内でクーラーで暑さがしのげてよかった。町の映画館だとどうなっていたのかわからない。いい選択だった。

さて、映画自体の感想だが、このページが一般公開されていること、まだ見ていない人もいることを考えてあえて展開などは書かないが、印象を一言言うと、「もののけ姫」よりずっとわかりやすく、みやすいとおもう。設定も展開もわかりやすく、あいかわらずのジブリのフライングシーンの見事さや、美しい世界観なども健在だ。もののけ姫が「ナウシカ」を受け継いでいる作品というなら、この「千と千尋」は「魔女宅」を受け継いでいる作品だと思う。しかし、魔女宅のようなのんびりした世界ではなく、もっと凶暴で不思議な世界が描かれているところがちがうのだとおもう。実際千尋の両親が豚に変えられてしまうシーンなどはあちこちに座っているちびっこたちから「こわいー。」という声が聞こえてきた。ぞっとするような一面がこの作品にはある。

「もののけ姫」のわかりにくさに比べればずっとわかりやすく、はっきりしている。また、ナウシカやアシタカなどの宮崎作品のヒーロー、ヒロインにはどこか聖人的な人格的立派さががあり、どうも自分とシンクロできないものがあるが、千尋にでてくるキャラクターにはそんな超人的な人はいない。千尋にしても普通の女の子だし、(物語の中で立派になっていくが、それでも彼女は普通の子であり、ヒーロー的な人物ではありえない。)千尋をたすけてくれるハクにしても、彼はなかなか立派な人物ではあるが、かれも過ちを犯す存在である。

この作品で最も印象的なキャラクターが「カオナシ」だ。この「カオナシ」はテレビのCMによく出てくるのでみんな知っていると思うが、真っ黒な体で、白いお面のような顔がついているアレだ。あのキャラクターは実にいい。ぼーっとしたふうに千尋を追いかける気弱な一面と、一転凶暴な一面を持っている。その辺が極めて現代的なキャラクターだ。かれの存在は実にこの作品をおもしろいものにしている。ちなみに彼は千尋の敵ではない。ただのストーカーである。

結局この物語の展開やテーマなどはきわめて単純でわかりやすいのだが、細かい点についてはほとんど説明がされていなくて、細部について考えるととたんにわからなくなる。おそらく細部について気にすべきではないのだろう。単純に楽しむのがこの作品の正しい攻略法だと思う。


7/15 暑い

暑い。暑すぎる。ここのところ毎年猛暑だが、今年はすでに5月からかなりの気温になっているように思う。なんだか振り返ると子供のころは冷夏だのとテレビで問題になっていた気がするが、ここの所冷夏の年は記憶にない。明らかに暑くなっているように思う。数年前はエルニーニョという言葉が天気予報で連呼されていた気がするが、なぜかぜんぜん最近聞かない。


7/12 ふるさとは遠きにありておもふもの

一週間ほど里帰りをした。6日間だったからいままででいちばんよかったとおもう。里帰りは長くするものではない。高校時代に習った詩を思い出す。


6/12 萩尾望都

知っている人は知っている伝説の漫画家「萩尾望都」さんを先日テレビで見た。たまたま深夜眠れなくてNHKをつけたら、「まんが夜話」という番組をやっていたのだった。この番組はBSの番組だが、NHKの総合で再放送をやっていたのだ。たまたま深夜つけると、それをやっていた。この番組のうわさはかねがね聞いていたが、BSなので見る機会がなかったのだ。これほど深夜にNHKの地上波でもやっているとは思わなかった。私が見たときはちょうど岡野玲子の「陰陽師」がテーマの日で、その討論のゲストとして萩尾望都さんがよばれていたのだった。

私のイメージと実際の萩尾望都さんはぜんぜんちがっていた。萩尾さんの作品の多くはヨーロッパを舞台にしたものが多くて、西洋的な雰囲気の人と思っていたら、和服で現れたのだ。あれ・・・・。まるで、少女のように「陰陽師」の魅力を嬉々として語るさまは、ほんと意外だった。萩尾望都の作品は極めて哲学的な作品が多くて、シリアスな作品が多いのだ・・・。

こういうひとが、意外にシリアスなのを書くのかもしれない。ふと、そうおもった。


6/5 風の谷のナウシカ

宮崎駿のアニメ「風の谷のナウシカ」はテレビでもしょっちゅう放映されているので、もはや日本人には知らない人はいないといえるほどだろうと思う。しかし、「風の谷のナウシカ」のコミックを読んだ人はそれほどでもないかもしれない。もともと、宮崎氏自身は、風の谷のナウシカをアニメとして作ることを最初に考えていたようだ。しかし当時、原作コミックのないアニメというのはほとんど考えられないことであり、周囲は原作のないアニメ映画に戸惑ったようだ。そこで、プロデューサーが出した案が、原作コミックを作ってしまうという大胆な案だった。アニメ専門雑誌だった「アニメージュ」に「風の谷のナウシカ」を連載させ、それによって周囲を説得し、念願の「風の谷のナウシカ」を制作したのだった。「ナウシカ」がアニメーションとして成功した後も、宮崎駿氏はアニメ製作の傍ら、「アニメージュ」に風のナウシカの漫画を連載しつづけ、数年前にこの漫画は完結した。この漫画版「風の谷のナウシカ」は現在コミックスとして発売されている。

中学生時代、少々アニメにはまっていた私は、時々この「アニメージュ」を買っていたので、「風の谷のナウシカ」が漫画として連載されていたのは知っていたが、それほど熱心に読んではいなかった。しかし、半年前頃に、なんだか読んでみたい気分になってコミックスを購入した。そして、「風の谷のナウシカ」という作品が、アニメーションとコミックスという二つの違ったメディアによって、まったく違う風になっているのを知った。おそらく、二つがこれほど解離してしまったのは、時間のためだろう。

「風の谷のナウシカ」がアニメーション映画である以上、時間という制約からは逃れられない。一定の時間内で話を完結する必要がある。もちろん、制作期間も決まっている。それにくらべて、コミックスのほうは自分がある程度納得できるまで時間をかけて制作することができる。話の長さも自分が納得する長さにできる。そして、宮崎氏は時間制約のない世界で、自分の考えを時間をかけて漫画としてまとめることができたのであると思う。その結果、当初の構想だったアニメ「風の谷のナウシカ」から、時間をかけて作った漫画「風の谷のナウシカ」はまったく違う方向にいってしまった。そして、それは当初のものよりもより深く、重みのある作品になったと思う。

漫画「風の谷のナウシカ」を読むと、全7巻のうち、2巻の途中までが、ほぼアニメと同じ内容になっている。が、そこから、話はまったく違う風に展開していく。ナウシカはアニメ同様「風の谷にせまるオーム」を止めた後、「風の谷」を去る。アニメ版では「風の谷」のほかにクシャナの国「トルメキア」、そして、アスベルの国「ペジテ」という国が出てくるが、ナウシカが風の谷を去って、その後話が展開していくのは「ドルク」という国である。コミックス版ではほとんどがこの国の話として展開していくのだ。

宮崎氏は当初、ナウシカを腐海の広がる今の世界から清浄の地に導く救世主として設定しようとしていたのだろう。しかし、結局そういう形で完結することはなかった。宮崎氏の結論は「人間は清浄の地に行くことはできない。」というものだった。宮崎氏が長い年月をかける中で、深く考えた結果がでてきている。アニメで実は腐海が世界を浄化させているということはすでに明らかになっている。しかし、なぜ腐海がうまれたのか?生み出したのは誰なのか?それは漫画であきらかになっている。その真実はあまりにも残酷だ。

漫画版「ナウシカ」をよむと、実は「もののけ姫」がよくわかる。「もののけ姫」というアニメももともとはヨーロッパの昔話である「美女と野獣」をもとにしてそれを日本に舞台を移したアニメにしようと構想されていたようだ。つまり、心やさしいお姫様が、もののけの妻になるというあれだ。この初期の「もののけ姫」についてはすでに本が出ているので詳しくはそちらを目にしたほうがいいだろう。が、このあまりにも単純な案はすぐに周囲から没にされてしまったようで、結局まったく違う話になった。

「もののけ姫」についてはその圧倒的な世界観と、美しい映像が高く評価された反面、いまいちわかりくいという評価もずいぶんあった。実際私もはじめてみたときはその結論のあいまいさにとまどったぐらいだ。正直言って「もっとはっきりした結論を出したほうがいいのでは?」とおもった。おそらく、はっきりした結論を出したほうが海外などの興行は成功しただろうが、おそらく、そんなことはするつもりないだろう。なぜ、宮崎氏は「もののけ姫」をつくったのか、「もののけ姫」で宮崎氏の表現したかったものはなんだったのか、もし、いまでも首をかしげている人がいるなら、「風の谷のナウシカ」のコミック版を購入することをお勧めする。



5/22 ニュースがつまらない

私はどうやら珍しい社会派らしい。先日、ケーブルテレビの勧誘の人がきて、「映画もみれます、スポーツも見れます。」といいながら、「どんな番組をよく見ますか?」と聞いてきた。「うーん。ニュースかなあ?」というと、珍しがっていた。

私は興味あるニュースだといろんなチャンネルのいろいろなニュース番組で同じ内容を見る性質だ。はっきりいって日本の報道番組は大きな違いなどない。でも、たとえ金太郎飴だろうとみてしまうのだ。

最初のころは、ニュース番組に出ている人はずいぶん物知りで、インテリだなあと感心していたが、近頃はそう関心もしなくなってきた。彼らの行動パターンは決まっている。彼らが何を誉め、何をけなすのかはすでに最初から決まっているのだ。

総裁選の時、もし、橋本さんが総理になったら、マスコミがどういう反応をするのか最初から決まっていた。きっと彼が総理になっていたなら、マスコミはずっと楽だっただろう。永田町を批判すればよい。そして、小泉さんが総理になっていればまだ状況はよかったはずといえばよかった。しかし、小泉さんが総理になり、圧倒的な支持を得る中、彼を批判することははばかられる。直接的には批判せずに、何とか婉曲的に批判しようと必死になっている。まるで、なんとか批判しないと仕事がなくなってしまうとあせっているようにも見えるのだ。

森さんのような悪役にぴったりの政治家から、国民の圧倒的な人気を持つスター政治家に代ったことで、逆にマスコミの弱い面が見えてしまった。なんだかマスコミの浅薄さを感じてしまう。


4/29 日本の独立記念日

今日は日曜日だったので、政治家がよく出てきて討論している某番組をちらと見ると、そこで、評論家のT氏がこんなことを言っていた。今日はちょうどサンフランシスコ講和条約が発効して、占領下から独立した日だと・・・。そして、フランスはフランス革命を、アメリカは独立記念日をアレほどお祝いしているのに日本人は独立記念日をお祝いしていない。お祝いすることが日本のアイデンティティーにつながる。ということらしい。

当然ながら、わたしも今日がそういう日だとはしらなかったし、多くの国民が知らないだろうし、また知る必要もないのではないかと思った。たしかに、日本は戦後占領化にあり、その後独立したとも考えられるのだが、たとえ今日がそういう因縁の日だったと日本人が知ったとしても今日が突然特別な日になるとは思えない。まず、日本人には根本的にアメリカの占領下から「独立した」という意識がない。もちろん国民が必死になって独立したというほどの事件も事柄もない。実際に占領下の日本政府は必死になって独立を回復しようとしただろうし、そのおかげで現在の日本があるので、そういう努力に感謝したとしても、この日は記念日にはならないだろう。おもうに、アメリカ人やフランス人にとって「独立」「革命」というのは、国民が大きく変化した画期的なことであり、それゆえ記念日になれるのだろうけれど、おそらく日本人には国民全体が一丸となって大きく変革したという経験がほとんどない。占領からの独立にしてもそれは国民が必死になった結果というよりは世界情勢の流れの中で流されたのだ。したがって、やはり、フランスやアメリカと比べることは不可能ではないだろうか。

フランス革命はまったく革命というなにふさわしい、徹底的な社会システムの破壊だった。それが立派でそれがないのがよくないというわけではない。フランス革命の激しさを知れば、あんなおそろしいことはないのだから。ただ、あれほどのことだからこそ記念になるのかもしれない。日本は世界的に見ても祝日の多い国だが、はたして祝日がいったい日本人にとって休日以上の意味をもっているのかかんがえるとむずかしい。意味をもつのはせいぜい元旦と成人の日、秋分、春分の休日ぐらいだ。それ以外は何故祝日なのかすらわからない。日本人にとっての意味のある記念日はむしろ、終戦記念日や阪神大震災の日だ。決して忘れ得ない日こそ形式の問題ではなくて、真に意味がある国民の日であろう。


4/24 新聞あれこれ

私は最近地方紙に興味をもっている。世界的に考えればほとんどの新聞は地方紙であって、全国紙などというものはめずらしいのだが、日本ではそれが逆転している。外国ではローカル紙がふつうで、それにビジネスマン向けの経済紙、各政党によった政治的な新聞、労働階級向けの新聞などさまざまだが、一億層中流と自認している日本では全国紙が一般であり、地方紙、スポーツ紙、政党紙、その上宗教系の新聞などがあるが、それらはあくまでもサブに過ぎない。

しかし、わたしはなんと言っても最近地方紙に大きく惹かれているのだ。長らく京都に住んで、多くの京都人が今日と新聞を愛読しているのに驚き、京都新聞にも一日だけアルバイトしたことがあったで、地方紙に興味をもったのはそれがはじめだが、最近東京在住なので、もっぱら東京新聞に興味をもっている。なんといっても、地方紙の良さはその価格の安さ。朝日・毎日・日経が一部130円という価格に比べて、東京新聞ならほぼ同じボリュームで100円なのだ。これは魅力。またこの新聞、コラムや特集記事もなかなかいいし、テレビ番組のガイドもかなり充実している。この新聞を愛読してきづいたのは、東京新聞はどちらかというと左よりの新聞だ。例の歴史教科書の問題なども批判的だったし、全体的に左の香りがする。まあ、もともと右寄りには合わない体質なので、これでまんぞくしている。

ただ、ちょっと思うのは読売・朝日・毎日などがひっきりなしに勧誘にくるのに東京新聞は一切こない。来てもとらないけれど、なんでだろうとおもう。あ、ちなみに私は新聞は新聞はキヨスクで買う人だ。


4/23 ギリシアに誘いにくい

先日、掲示板のほうで「ギリシア旅行って誘いにくい。」と書いたら、とても反響があった。どうもみんな同じように感じているようだ。先日などもギリシア料理店に行ったとき、「ギリシア料理を食べにいこうって誘いにくい。」と言う意見を聞いた。私は料理についてはそれほど抵抗なく友人たちを誘っているが、誘いにくいと思っているひともおおいようだ。そもそも、ギリシア料理店もあちこちにあるわけではないので行きにくいという部分もあるが、そういう問題ではなくて、「ギリシア料理」というのが辛いらしい。一般の人にはイメージできないという部分もあるのかもしれない。それはギリシア料理が口に合うあわないではなく、ギリシアそのもののイメージが日本人の中にないからだ。

ギリシアについて本当に知らない人は知らない。ギリシアがどこにあるのか、どれくらいの規模の国なのか、何語を話しているのか?そのような状態でレストランには誘いにくいのだろう。次のオリンピックはアテネだ。その頃にはもっと誘いやすくなっていることを期待する。


3/21 実話

今日、家に帰るために東京の某私鉄に乗っていたときのことです。ふと見ると、おばあさんが駅についたので、降りようとしてたけれど、なぜか体がうまく動かないようで、降りられそうにないようでした。まあ、年をとっていて杖も持っていましたから、私はてっきり足が悪くて、スムーズに降りれなかったのだと思ったのです。あわてて、電車のドアに駆け寄ったけれど、間に合わず、電車は扉を閉めてしまいました。

まあそれでも普通の各駅停車ですから、一駅進んだとしても戻ればいいですから、それほどのことではありません。東京は電車の便も多いですから。そう思って、おばあさんにとりあえず席を勧めましたが、もっていたカバンをパタッと落とすと、ようやくといった感じで椅子に半分だけ腰掛けました。

なんで、ちゃんと座らないのだろう?おばあさんの動きの不自然さに、ちょっと気になったので、おばあさんの膝の下に私の手を入れて、「えい」っと、座らせてあげました。おばあさんの表情は硬くて、どうもおかしい。わたしはてっきり足が悪くて動きが鈍いと思っていましたが、どうやら体調そのものが悪いようです。おばあさんは腰に力が入らないようで、すわったのに、ズルズルと前方に落ちそうでした。あわてて、おばあさんの膝を抑え、「大丈夫ですよ。持っていますから。」と、笑って言いましたが、やっぱりおかしい。おばあさんの隣に座っていた女性も、おばあさんの体を支えてくれました。

まわりも、どうやら大変だと気づいたらしく、一人のおじさんが近寄ってきました。おばあさんは一言も発しません。そのうち、ふーっと。意識がなくなって、目を閉じてしまいそうになったので、これはまずいと思いました。おばあさんの腕を取り「しっかりしてください!!」と大声で言ったら、ふっと、気を取り戻しました。これは、かなりヤバイかもと思い始めていたので、おもわず、「誰か看護婦さんはいませんか??」と叫びましたが、いない様子した。

そうこうしているうちに駅に到着。同じ車両にいた主婦の方が「駅員さんを呼びますか?」といったので、「お願いします。」といいました。それからどうなったのか、「看護婦さんはいませんか?」と叫びつづけるも、だれもいない。まわりのひとは遠巻きにこちらを見ていました。

電車が止まって、かなりたってから、駅員らしき人がきました。その瞬間おばあさんはもとにもどって、「脳貧血です。」といい、すくっと立ち上がりました。「よかった、大丈夫ですね。」とわたしは安心しました。周りの人が「休んだほうがいいですよ。」といっていたので、駅員さんがおばあさんと一緒に電車を降りました。おばあさんはどうやらあんまり大騒ぎになったので、たぶんばつが悪かったのでしょう。もう大丈夫という風にしっかりと歩きました。

わたしも役目は終えたので、その駅で次の電車を待って、帰りました。そこで思ったことが一つ。東京の人って、やっぱり照れ屋なのか、おばあさんも大騒ぎになってばつが悪そうでしたし、まわりのひとも遠巻きにみるだけで、そばによって何か助けようとはしないんですね。なにもかもが計画どおりに動く社会は便利だけれど、緊急事態にはよわいなあと感じました。

最後に、あのおばあさんが無事に家に帰っていることを祈っています。




3/14 好きな歴史上の人物の選び方

よく、「好きな歴史上の人物は?」というお題が出ますね。で、人気投票などをやると誰それ?と思わず言いたくなる人や意外な人、ありがちなひとなどいろいろでますが、その選ぶ基準についてちょっと興味をもちました。

で、思ったことが一つ。まず、男性の場合圧倒的に「有能な人」を好きな人物にあげることが多いということです。もちろん、「有能な人」というのはそれぞれ考えによって違うのですけれど、まあ、ここはギリシア史のサイトですから、ギリシア史でいうなら、「ペリクレス」「テミストクレス」「アレクサンドロス」あたりでしょうか?なんとなく有能そうですね。

女性だとやっぱりイメージが大切ですね。適度に有能だったが、若くして死んでしまったりするとイメージが実によろしい。また、涙がでそうな感動エピソードがあるとよろしい。それにくわえて、美男美女の大恋愛エピソードがあるとさらによろしい。たとえば、「クレオパトラ」とか女性なら興味を持ちそうではないでしょうか?

なんとなく、そういうイメージもってしまう今日この頃。




3/5 マニュアル本が人気

最近本屋の入り口のあたりのベストポジションに平積みされている本のほとんどがマニュアル本だと思いませんか?なんだかよくわからないけれど、「株で儲ける。」だとか「これから出世するのは○○だ。」とか、これからの経営戦略、はたまた恋愛の成功の秘訣、人生のアドバイス、老後の暮らし方などなど、まあ、平積みされているということは売れているんでしょうね。

マニュアル本はなかなか便利です。初心者にとって、その道に明るい人が教えてくれるアドバイスやコツのようなものは実にありがたい。わたしも受験のときはそういうアドバイス本を読んでみたりもしましたし、パソコンだって、本を見たりインターネットの情報などで少しずつ学んでいきました。でも、人生のアドバイスとか、恋愛のアドバイスとか、出世マニュアルなんて、役立つのかなと思ってしまいます。というか、マニュアルなんて存在するの?とおもいます。

でも、おそらく、そんなこと誰もが思っていることなんでしょうね。人生にマニュアルなんてないと思っていながらも、手を伸ばしてしまうのでしょう。私も高校の図書室で「女の生き方」についてのマニュアル本を開いたことがありました。一読するとなんとなく、なるほどとおもってしまう。でも、何度も読むとあらが見えてきますね。なんだかたいした本じゃないなと気づく。たいていかかれていることは一面的で、説教くさくて、大して役に立たない。でも、それでも人が本を手にとってしまうのは自分自身の不十分なところに気づいているからでしょうね。もっとよくなりたいという向上心があるからといえばいい感じですが、逆にいうと、自分自身の良さや個性に気づいていないということなのかもしれません。世間一般が立派と思うふうになろうとする心理というのが、マニュアル本の氾濫につながっているのでしょう。

何か不安なんですね。自分が誰かに認められていると実感しているときは非常に精神的に安定します。たぶんマニュアルも必要ない。でも、誰かではなく、誰もに認められようとするときっと不安になるのだと思います。この不況下、自分がいつ社会から落ちこぼれるかわからない、すこしでもほかの人よりぬきんでないと不安、みんなに必要とされないと見捨てられるかもしれない。そんな時代の雰囲気を感じます。

マニュアル本ではちっとも解決しないとわかっていても、ちょっぴり不安。信じないけれどとりあえず読んで見るか・・・。それが読者の心理じゃないかと思います。




3/3 「海の都の物語」を読んで

まるで小学生の読書感想文のようなタイトルのつけかたですが、かなり有名な塩野七生さんの著作を読みました。

塩野さんは実に人気のある作家で、私の知人にも読んだ人が多く、まあそれに影響されて、たまたま近所の古本屋で見かけたのを機に購入してみました。さすがにおもしろい。わかりやすい。すらすらとよめるし、また、つぎつぎと頭に入ってくるのがすばらしい。なかなかの才能の持ち主ですね。塩野さんはおもにイタリアをテーマにした作品を書いており、ローマの話やルネサンス期の話が多いですが、「海の都の物語」はヴェネツィアの通史的なお話です。ヴェネツィアの始まりから、都市の性格、あと有名な第4回十字軍の話、ヴェネツィア商人などをテーマにおもしろくまとまっています。また、面白いだけではなく、自分の意見をちゃんとまとめているところや歴史に対する真摯な態度も共感できますね。

専門家から見ればまったく専門的な歴史書とはいえない本でしょうけれど、でも、おそらくこういう本のほうが世間に与えるインパクトの大きさや、普及されやすさを考えると、後代までつづいて読みつがれるのかもしれないとちょっと思ってしまいました。過去の記録がしばしばその厳密さによって伝えられていくのではなく、面白さや運によって読み継がれていくこともあるのだということ知っていると、そうおもってしまいます。

専門家の書いた歴史書を読んでいると思うことですが、歴史家というのは歴史を研究しているから歴史家なのかそれとも、歴史書を書いているから歴史家なのかと考えたときに、やっぱり答えは後者だと思います。たとえ、何年も緻密な研究、膨大な努力を払っていても、歴史書という集大成をだせなければやっぱり歴史家とはいえないのではないでしょうか?

もちろん、長年にわたっての苦労を馬鹿にするわけではないし、歴史研究というものの底辺が細かい作業によって支えられているのは知っていますが、やはり、歴史書を書いてこそ歴史家だとおもうんです。たまに、実に読みにくい論文や専門書に出会うと、確かにその研究の努力はすごいのでしょうが、最後の最後で台無しになっている気がします。

面白おかしく、受けを狙えというのではありませんが、あまりにも文章の下手な研究者に出会うと、なんだか、ちょっと残念でなりません。文章の書き方というのも歴史家の必須の能力だと思いました。




2/27 「鑑真和上展」感想

東京方面以外の方はご存知ないかもしれませんが、現在東京都立美術館では「鑑真和上展」なるものが開催されております。宣伝やそれにあやかった特別番組などがんがん放送されているし、「鑑真和上」の像は普段でも年に3日しか公開されないのに、唐招提寺の修復期間、美術館で展示されるということで、ミーハーながら行ってきました。土日に行ったら多いのは間違いないので、平日にしたのになんという多さ!!入場まで40分ぐらい待ちました。ほとんどがリタイアしたご老体そして、主婦、若い学生ですね。みなさん混雑覚悟でお出かけください。

さて、展覧会の混雑についてはまあいたしかたないとしても、不満がありますね。まず、はっきり言って、展示内容にくらべて料金が高すぎるように感じます。大人が当日券で買った場合なんと1200円です。まあ、私は長らく京都に住んでいましたので、比較的安価に国宝級の仏像を見る機会に恵まれすぎていたのかもしれませんが、それにしても高い。京都のお寺の拝観料の高さはいろいろ観光客にも不満になっていると思いますが、京都では600円程度だせば、国宝級の仏像やお寺の内部が拝観できます。もっと安いところもたくさんあります。しかし、今回の鑑真和上展は確かにすばらしいものでしたが、この料金にはたして見合うのかというと疑問になりますね。

これだけの展覧会ですから、京都みたいにのんびり美術鑑賞にならないのはしかたない。しかし、人込みの合間でぎゅうぎゅうになりながら鑑賞して1200円。いったい誰が料金をつけたのかと思います。たとえば、外国の美術館から美術品を集めた企画展なら、まあ、輸送コストや保険などもろもろを考えてもかなり高くなるのはわかります。それに、海外に行く機会はめったにありませんし、高くても、混雑しても仕方ない、それでも見たいという気分になります。

私の感覚ではいくら普段めったに表に出さない秘蔵の品々だったとしても、この展示内容でこの料金は高すぎます。はっきり言って、京都の大きなお寺の秘蔵公開展ぐらいすごいと思いますが、東京までの輸送料を考慮しても、一般800〜1000円というところでしょう。

まず、この展覧会の見ものは鑑真和上坐像と、国宝の四天王像、鑑真和上の東征伝絵巻ですね。これらのすばらしさには文句がつけれませんし、その他にも古い曼荼羅や経典、仏具、彫刻なども展示されていました。それらは悪くないです。特に東京の人が平安以前の古い仏教の品々に触れる機会が少ないことを考えれば貴重なのでしょう。また、鑑真和上坐像は脱活乾漆像というきわめて壊れやすく運ぶのに慎重さと技術を要する像(というより、こういうタイプの像は運ぶことを前提に作っていないのだと思いますけれど。)で、これを長距離運ぶということはほとんど文化庁の許可の下りないまれなことだということはわかっています。輸送を担当した業者の人は並々ならぬ苦労があったでしょうし、専門家もひやひやものだったと思います。

今回の展覧会が有意義なものだとは思いますが、なぜか金額が気になる。まず、おもうに、この展覧会が開かれるそもそもの理由は唐招提寺の金堂が非常にいたんでおり、修復作業がいま急がれているということです。金堂の修理のために、秘蔵の品を金堂から出さなければいけなかったということもありますが、たぶん、修復のための費用もこの展覧会で稼ぐつもりなのでしょう。

そうでなければ、この程度の内容でこの金額は高すぎです。隣にある国立博物館の常設展に行ったほうがもっと低価格で優れた作品が見れたに違いありません。

唐招提寺もいくら宗教とは言えど金がなければどうしようもないのはわかります。寄付を募るのも悪くない。でも、コストパフォーマンスを考えるとどうしても不満が残りますね。寺に行って美しい寺の風景を楽しみながら、仏像や金堂をゆっくり拝見するより、美術館の前で何分も並んで、人込みにまぎれて拝見するほうがコストが高いというのは納得いきません。これなら、京都や奈良まで旅費を使ったとしても、思い切って旅に出たほうが納得度が高い気がするのです。



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